2023年09月06日

[追想2]ホーミーが聞こえる(1995年)

ここからが本当の試練だったのです。
橋本部長が病に倒れるという事態になりました。文字開発部次長に内田さんが昇進し、私は「デザイン制作課」と「企画課」が合体した「デザイングループ」の課長ということになりました。石川課長は他部署に異動になりました。私の能力からすると、かなり荷が重い立場になってしまったのです。

HOI-2-10a.jpeg

1995年、写研は創業70周年を迎えました。50周年では『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』、60周年では『文字に生きる[51–60]』という記念誌が刊行されましたが、70周年では、『写研 文字文化の七〇年』という映像作品が制作されました。ナレーターは石井社長がつとめられました。
記念感謝パーティーは、浅葉克己さんのプロデュースによって、東京プリンスホテルのプロビデンスホールで開催されました。会場内にモンゴルのゲルが再現され、「文字の宇宙」と題する展示がありました。
前述の映像作品が披露されたほか、モンゴル民族音楽ショーとして、馬頭琴とホーミー、ヤットコ、舞踏少女などが繰り広げられました。

HOI-2-10b.jpeg

また日をあらためて「社員の集い」も開催され、映像作品の上映、展示観覧、モンゴル民族音楽ショーに加えて、社員によるパフォーマンスがありました……。
阪神淡路大震災、オーム真理教事件などが起きた年です。裁判の手伝い、屋久島での研修があったのもこの年です。写研祭がなくなり、個人的には、これまで毎年行っていた海外旅行にも行けませんでした。
そして、1995年の写研創業70周年に発表できるように制作の準備を進めていた「本蘭ゴシック」と「本蘭アンチック」は、広告で発売の予告を出していたにも関わらず間に合いませんでした。残念でなりませんでした。
posted by 今田欣一 at 08:15| 活字書体打ち明け話・2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年09月08日

[追想2]飛んでイスタンブール(1996年)


社長の文字開発部への関与はますます強くなっていきました。社長の決裁がないと仕事が動かせないのですが、社長は多くの部署の部長を兼ねていたので、とても手が回らないのは明らかでした。週一回あるかないかの御前会議では何も進みません。
社長は基本的に、毎週木曜日午後4時に埼玉工場にやってきました。それから開発部との打ち合わせが始まります。それが終わると文字開発部が呼ばれます。いつ始まるかわからないので、それまで待機していますが、8時、9時から始まることもしょっちゅうでした。結局時間切れになってしまうこともありました。
また、社長は現場にいるわけではないので、担当者の説明を理解するのも難しいという状況でした。そうなると決裁を保留することも多くなってきました。そうなると仕事の指示ができないということが起こりました。40名近くいる課員を遊ばせることもできず、何らかの仕事の指示を独断でも出さざるを得ない状況に追い込まれました。

1996年になって、悪意のない密告(状況をよくしようという提案だったと思う)が社長にもたらせることになり、内田次長、私ともども役職を解かれました。私は労務部長付へ異動になりました。
暗い気持ちのなか、第14回石井賞創作タイプフェイスコンテストで第2位となり、この書体も商品化が決定されました。しかしながら、またまた光明……とはなりませんでした。私は忍耐の限界に達していたのです。

HOI-2-11.jpeg

夏の終わりに、私は写研を退社(自己都合による円満退社)しました。相談した方からも退社を勧められていました。退社時の所属は労務部長付でした。
posted by 今田欣一 at 16:11| 活字書体打ち明け話・2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年09月11日

[追想2]私は忘れない〜ある新聞記事から(1999年)

1999年1月1日〜3日の読売新聞の記事を、いまさら取り上げることにつきましては、古い写研信奉者の皆様方は「いまさらこの記事を見るのは気分が悪い」と立腹されるのではないかではないかと心配いたしております。
新聞記事なので「社員しか知り得ないこと」という指摘には当たらない(むしろ社員は知らなかったことです……)わけです。また、終生の忠誠を誓っておられる人からすれば、この記事で証言している方々に対しては「モラルに欠ける」と思われているに違いありません。

HOI-2-12.jpeg

私といたしましては、本蘭ゴシック・ファミリーをはじめ、日の目を見なかったナールBや、本蘭アンチック・ファミリー、紅蘭宋朝に関連して、当時の状況を語る手掛かりになることなのです。裏切られたという意味では、被害者のひとりであります。たとえ社史には残らない負の歴史であっても、客観的な事実として、蓋をすることなく、語り継ぎたいと考えております。

退社の後のことは、伝聞もしくは推察になります。
2000年の本蘭ゴシック・ファミリーの発売を最後に、新しい書体は作られなくなりました。そして希望退職が勧められ、書体制作部門は壊滅状態になります。一時、オープンタイプ化という話題がありましたが、この時すでに社内で制作することは事実上不可能になっていたのです。
posted by 今田欣一 at 08:09| 活字書体打ち明け話・2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする