2023年08月25日

[追想2]嵐の海へ(1991年−1993年)

職場の雰囲気がなんとか落ち着いてきたと思った矢先、突然、長村次長が退社されました。関さんもいつの間にかドロンしてしまいました(忍者かよ)。
そして橋本和夫さんが文字開発部長に昇進されました。私は、新しくできた「企画課」の係長補佐になり、さらに1993年には課長代理に昇進しました。「デザイン制作課」は石川課長がそのまま担当されました。

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ここに至って、やっと、やっと、念願の「本蘭ゴシック」「本蘭アンチック」、そして「紅蘭宋朝」「紅蘭楷書」の各ファミリーの開発に取り組むことができると張り切っていました。これが私の本来取り組むべき仕事だと思っていたのです。
「本蘭ゴシック」「本蘭アンチック」の企画が、いつ、どのように始まったのか、もう30年も前のことであるし、詳しいことは覚えていません。「本蘭アンチックU」が1992年10月竣工の大阪営業所ビルの「定礎」に使われているので、その頃には企画していたと思われます。「本蘭ゴシック」「本蘭アンチック」は「本蘭明朝」のグランド・ファミリーとして、同時に企画しました。
「本蘭ゴシック」が他社の某人気書体に対抗して制作されたという関係者の証言もあったようですが、企画段階でそのような意図があったということは聞いたことがありません。おそらく営業上のことだったと推察します。私個人としては、字游工房で制作されていた「ヒラギノゴシック体」をライバル視していました。
「本蘭ゴシック」と「本蘭アンチック」は、1995年の写研創業70周年に発表できるように制作の準備を進めていました。しかしながら、私の力不足もあって、それは、なかなか思うようにいきませんでした。
一方、「紅蘭宋朝」と「紅蘭楷書」のファミリー化についても写研創業70周年に発表できるようにしたかったのですが、こちらは企画案さえ出すことさえできませんでした。しばらくは私の心の中に仕舞い込んでいました。
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2023年08月28日

[追想2]印刷会社の会社案内から(1993年)

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写真は、鶴ヶ島市にある有限会社東京工芸社の、1993年発行の「会社案内」の部分です。当時、私は「REJOICE!」という小冊子を東京工芸社で印刷してもらっていたので、その時にいただいたものだと思います。
東京工芸社は、創業時は金属活字版印刷でしたが、手動写植機を導入し、この会社案内を作った時点では、電算写植システムが主流になっていたようです。現在では電算写植システムはなくなり、全面的にDTPへ切り替えられています。
あるTwitterアカウントで、写植について手動写植機の機構を詳しく説明したのちに、「今まで文字盤しかなかったが、ようやくデジタル化が始まる」と書いてあるのを見て、あれ、Cフォントは無視なのかと思った人も多いはずです。
活字書体の記憶媒体から見ても、手動写植機と電算写植システムでは大きく違っています。ざっくり言うと、手動写植機は文字盤(アナログ)であり、電算写植システムはCフォント(デジタル)です。その移行は、すでに文字盤として発売していたものをCフォントに変換した時期、文字盤とCフォントを同時に発売していた時期、Cフォントのみを発売した時期に分けられます。
私の個人的な感覚ですが、10代:金属活字の時代、20代:手動写植機(文字盤)の時代、30代:電算写植システム(Cフォント)の時代、40代:DTP(TrueTypeフォント等)の時代に分けられると思っています。もちろんこんなにはっきり分けられるわけではありませんが、とかく埋もれてしまいがちな電算写植システムの時代を、しっかりと組み込んでおきたいと思うのです。
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2023年08月30日

[追想2]社内報・写研祭特集号(1991年−1994年)


1991年から1994年までの4年間、写研祭の企画を担当させていただきました。私にとって貴重な経験になったのは、社内報・写研祭特集号の編集でした。それまで社内報は総務部が担当でしたが、1991年からは私が担当することになったのです。

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当時、写研では「サンプラスC」というカラー集版システムを開発しており、その実験も兼ねて、社内報・写研祭特集号もカラー印刷で制作するということでした。しかもタショニム・フォントの実用化も兼ねていたので、多書体が使い放題です。本文書体に「カソゴ」を使ったこともありました。
といっても「REJOICE!」という個人誌ぐらいしか編集の経験がありません。また電算写植システムを直接操作できるわけでもありません。遠い昔の学生時代を思い出しながら、レイアウト用紙に、コピーとハサミとのりを使って、レイアウト指定、書体指定、色指定などをしました。総務部で作っていた今までのものに比べて凝ったデザインだったので、組版を担当するトライアル室(印字部)からは嫌味を言われました……。
あとはトライアル室に校正も含めてすべてお任せです。特に色校正をできないのが不安でした。案の定、実際に出来上がってきたのを見てがっかりしたこともあります。ただ、回を重ねるごとに慣れてきました。
写研祭は1994年で終了しました。そして会場となった「鶴ヶ島ソフトボールグラウンド」(社有地)は、現在はケーズデンキなどになっています。

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2023年09月01日

[追想2]屋久島哀歌〜研修という名の修羅場w(1995年)

屋久島の森の中に「写研屋久島研修センター」はあった。島の中心部の反対側なので、車でないと行くことも帰ることも難しい。この環境は研修には最適だ……。
中央の建物には研修室や食堂などがあった。西側の建物は宿泊施設で、渡り廊下でつながっている。南側の建物は体育館である。
「そこは楽園なのか、監獄なのか」
どのような研修が行われていたか、誰も語ろうとはしない。(しかし私は知っている)

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エピソード1 お布施事件
その頃、オーム真理教の一連の事件が世間を賑わせていました。また、統一教会による霊感商法もすでに話題になっていたと思います。
屋久島研修の事前打ち合わせのとき、参加者に水が配られました。社長はメンバーのひとりに向かってこう言いました。
「これはただのグラスではありません。霊験灼かなグラスです。あなたはこれにどれくらいの価値があると思いますか?」
「(しばらく口ごもった後で)3,000円です」
「それでは今すぐ3,000円を私に払いなさい。これは私へのお布施です」
そうなると他の参加者もタダではすみません。3,000円ずつ巻き上げられることになりました。もしその人が10,000円と言っていたら……ゾッとします。たぶん、ただのグラスだったと思います。
巻き上げられた3,000円は戻ってきませんでしたが、研修の終わりに、屋久杉のお土産品が配られました。
エピソード2 外出禁止令事件
屋久島は遠いので、まず羽田空港から鹿児島空港まで移動し、鹿児島で一泊するというスケジュールでした。ホテルでは外出禁止という指令がありました。
その夜、社長があるテレビ番組に興味を示し、「必ず見ておくように!」という電話連絡が、各部屋にありました。どういうテレビ番組だったのかは覚えていません。その時にひとりのメンバーに連絡がつかなかったようです。外出禁止ということでしたが、ホテル内にいれば問題ないと思っていたようです。
翌朝、その人は社長から「屋久島には連れて行かない」と言われました。もちろん「ハイ、そうですか」とは言えません。鹿児島空港の出発ロビーで土下座して謝り、なんとか屋久島までいっしょに行くことができました。
一同、胸を撫で下ろしましたが、これからの研修に向けて、さらに重苦しい空気になりました。
エピソード3 天岩戸事件
屋久島空港から「写研屋久島研修センター」まで車で移動。午後から研修が始まりました。
研修といっても、かつて総務部が行なっていた社員研修のようにしっかりしたカリキュラムがあるわけではありません。社長の心の中ではあったのかもしれませんが、メンバーは何も聞かされていませんでした。
研修室に集まったメンバーに対して、昨夜のテレビ番組の感想を求めました。ひとりひとり感想を話しましたが、どうも社長の期待している感想ではなかったようです。社長は怒って、自室に籠ってしまいました。
メンバーはどうしていいか分からず、社長の怒りを鎮めるにはどうすべきかを話し合うことになりました。代表者が何かしらの結論をもって社長に報告に行きました。そろそろ夕食の時間でした。社長はしぶしぶ出てこられたのですが、その理由がどうだったのかは全く覚えていません。そのような研修でした。
こういうことを通して社長に対する忠誠心を確認したかったように思えました。これは研修という名の「洗脳」だと、私はその時思ったのでした。
エピソード4 沈黙の観光
研修の途中、突然、車に乗るように指示されました。屋久島の代表的な観光スポットを巡ったのですが、ただただ押し黙って歩くだけでした。カメラもないので写真の一枚も撮れず、財布も持って行ってないので土産を買うこともできません。記憶だけが残っています。

今はもう笑って話せるのですが、その当時はかなりの修羅場でした。

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2023年09月04日

[追想2]大阪地裁にて〜ある裁判の思い出(1995年)

その昔、とある裁判がありましてね。大阪地裁に2、3回傍聴に行きましたかね。そう、1995年、阪神淡路大地震の後でした。中村征宏さん、小塚昌彦さんの証人喚問があったりして、傍聴者としてはドラマみたいで面白かったですよ。
私もほんの少しだけ手伝っていましてね。銀座の弁護士事務所にも足を運びましたし、書類作りにも協力していました。私の署名のある文書もあるはずですよ。書いたのは弁護士さんですけどね。いちばん面白かったのは訴訟に至るまでの経緯なんですよね。
そんなこんなで、大阪地裁の判決まではいなかったので、その後のことは知らないんですけどね。この裁判の結果については、勝った、負けたというだけの情報が一人歩きしていますけど、本当のところは判決文をしっかり読んだ方がいいと思うんですよね。(談)

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布施常務に聞いた話では、当初、顧問弁護士は「勝つは難しい」と言っていたようです。それでも訴訟に踏み切ったのは、「原告、被告ともに、著作権法で保護されるべきだと主張している。棄却になったとしても、著作権法で保護されるという判例が欲しい」ということだったそうです。
しかしながら、布施常務の読みは全く外れてしまいました。写研も、モリサワも、裁判となると負けたくはなかったのです。それが結果的に、著作権法では保護されないという判決に繋がったのかもしれません。
私個人としては、最高裁判決を受け入れています。
posted by 今田欣一 at 08:58| 活字書体打ち明け話・2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする