2023年07月11日

[余聞2]ナールファミリーと平成丸ゴシックの間で

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1995年の広告では、本蘭アンチックU(本蘭A明朝U)、本蘭ゴシックUと並んで、ナールUが掲載されています。「Uの時代」としてウルトラボールドのウエイトを取り上げていますが、いずれの書体もファミリーとして計画されていました。
今からみれば、本蘭アンチック、本蘭ゴシックと来たら、「本蘭丸ゴシック」を並べたいと思われるかもしれません。しかしながら、当時、丸ゴシック体といえばナールファミリーが人気だったので、ゴナに匹敵するファミリー化を進めることにしました。

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ですので、本蘭丸ゴシックUの発想すらありませんでした。どこを探しても「本蘭丸ゴシック」という名称すら見つからないと思います。

本蘭丸ゴシックが企画されなかったもう一つの理由として、同時期に平成丸ゴシックを制作していたことが挙げられます。結果的に、私が直接制作したのは、この平成丸ゴシックの和字書体だけということになりました。

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平成丸ゴシックがあれば、あえて本蘭丸ゴシックを制作する必要性がなかったというだと思います。平成丸ゴシックは写研からは発売されませんでしたが、多くのベンダーから、平成明朝、平成ゴシックとともに発売されています。

posted by 今田欣一 at 20:52| 活字書体打ち明け話・2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年08月09日

[追想2]「本蘭」第2章と「紅蘭」第1章(1985年)


1985年、写研は創業60周年を迎え、記念感謝パーティーが開催されました。
私が出席したのは社員の集いでしたが、専務がファンだという当時のアイドル、柏原芳恵さんがゲストで、たいそう盛り上がっていたと記憶しています。
同年の「写研フェア」(展示会)には電算写植システムの数多くの機種と、デジタルタイプの数多くの書体が発表されました。特に「本蘭明朝ファミリー」と「紅蘭楷書ファミリー」は、私は直接担当していなかったものの、電算写植を代表する書体の開花だと思っていました。

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そして今後ますます繁栄していくことは疑う余地もありませんでした。1988年のあの日までは……。
posted by 今田欣一 at 08:13| 活字書体打ち明け話・2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年08月18日

[追想2]暗雲そして激震(1988年)

1988年の年明けから暗雲が立ち込めます。その日のことは、『文字を作る仕事』(鳥海修著、晶文社、2016年)に書いてあります。

しかし私が入社してから一〇年ぐらい経ったある日のこと、デザイナーが四〇名ほどいる大部屋から、ほぼ半数が突然いなくなったことがあった。数時間後に戻ってきたが、「どうした」という質問に答えてくれる人は誰もいなかった。箝口令が敷かれたらしい。直属の上司に聞くと「私だって分からない!」と言われる始末で、それ以来、なんだかなあ状態になってとても働きづらくなってしまった。

私も、鳥海さんと同じく居残り組でしたので、不可解な思いでした。当時ある噂が流れていましたが、事実かどうかわかりませんのでここでは触れないでおきます。
その疑問は、3月の組織変更と人事異動で明らかになります。全社的には、総務部担当の専務の名前が組織図から消え、開発本部長、文字部長などの幹部が更迭されていました。文字部から文字開発部が分離され、文字開発部長には事実上、社長が兼務することになっていたのです。
写研は当時、本部制を敷いていて、文字部、文字開発部ともに製造本部に属していました。したがって、文字開発部長は、製造本部長が兼務ということになりましたが、これは形式的なもので、社長が直接管理するということなのです。それで事実上という表現にしました。
文字開発部においても、突然いなくなっていたメンバー、すなわちM課長がピックアップしたメンバーが新たに「デザイン課」となり、居残り組は、石川課長の「制作課」ということになっていました。鈴木勉係長、私、関谷攻係長、鳥海さんも、石川課長の「制作課」ということになりました。石川課長もどうしたものか頭を悩ませている様子でした。
ところが、その人事異動のすぐ後で、私にとっては光明が差し込みました。同年4月、第10回石井賞創作タイプフェイスコンテストで第1位に選ばれたのです。すぐに商品化へ動き出すことになり、ここに至って、「制作課」のなかで「デザイン課」の業務を行うというねじれが生じることになりました。
posted by 今田欣一 at 11:14| 活字書体打ち明け話・2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年08月21日

[追想2]字游工房の衝撃(1989年)


1989年3月に鈴木勉さん、岡田安弘さん、小林章さんが退社されました。その後も退社する人が後を絶たず、毎月のように送別会が行われる事態になりました。そして夏には、鳥海さん、片田啓一さんが退社していきました。さらに関谷係長も別のセクションへ(希望して)異動になりました。
退社の理由はそれぞれで違うようです。鳥海さんは『文字を作る仕事』(晶文社、2016年)で、小林章さんは『欧文書体 その背景と学び方』(美術出版社、2005年)で書いています。私の勝手な想像ですが、その奥底には、1988年の激震がひとつの引き金になったように思えるのです。
私はというと、第10回石井賞受賞の書体を制作していたので、すぐに退社するという選択肢は考えませんでした。
その年の9月に、鈴木勉さん、鳥海さん、片田さんの3人が「有限会社字游工房」を設立することになります。小林章さんはイギリスに、岡田さんはオーストラリアに旅立って行きました。2人とも、帰国後、字游工房に参加しています。字游工房は実質的に、退職した元社員の受け皿のようになっていきました。
私からすれば字游工房の設立は衝撃的でした。なにしろ当時の文字開発部の中心だったメンバーが突然ライバルになったのです。レギュラーメンバーの大半が新チームを結成したようなものですから、文字開発部としてのチーム力が急激に落ちたということは否定できません。ですが、残されたメンバーでやるしかありません。
文字開発部でも動きがありました。M課長が病気を理由に更迭されたのです。思えばM課長こそ最大の犠牲者だったと思います。それは8年後に、身をもって思い知ることになります。
文字開発部次長として長村玄さんが異動してこられました。「デザイン課」と「制作課」が合体して「デザイン制作課」となり、橋本和夫さんが課長に復帰されました。つまりデザイン制作課は、橋本課長と石川課長の2人体制になったのです。文字開発部長は事実上、社長兼務のままだったので、次長・課長クラスは精神的に大変だったと想像しますが、一社員としてみたら職場の雰囲気は落ち着いてきたように思われました。
posted by 今田欣一 at 08:20| 活字書体打ち明け話・2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年08月23日

[追想2]オックスフォードの風(1990年)

1990年、私にとっての光明が再び差し込みました。私は第11回石井賞創作タイプフェイスコンテストで第2位となり、これも商品化が決定されました。このとき、字游工房から祝電をいただき、とても嬉しかったことを今でも覚えています。
長村次長に勧められて、イギリス・オックスフォードで開催された「type90」というイベントに、関志信さんに同行することになりました。それまでは閉鎖的だった部内の雰囲気が、外部にも目を向けられるように感じられるようになったのか……と思いました。

この年から5年間は、毎年夏休みを利用して海外のパックツアーに出かけました。はじめての海外旅行はスペイン(1990年)で、カナダ(1991年)、中国(1992年)と続きました。さらには、地中海を巡るように、イタリア(1993年)、エジプト(1994年)を訪れました。
posted by 今田欣一 at 08:13| 活字書体打ち明け話・2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする