2018年12月17日

[余聞2]紅蘭細宋朝 追記

これまで「私がもっとも魅せられた書体」として「[航海誌]第9回 紅蘭細宋朝(簡体字・繁体字)」で書いておきながら何のサンプルも見せられなかった写研の仿宋体(倣宋体)の簡体字文字盤があったとの嬉しい知らせが届いた。

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簡体字文字盤なので日本語の文章を組むことが難しい。なので日本語と同じ字体の漢字を集めたサンプルを印字してもらった。擬似的ではあるが、これが日本語の「紅蘭細宋朝」の見本ということになる。国内では宋朝体は需要が無いということだったのか、日本語版「紅蘭細宋朝体」として発売されなかったことが惜しまれる。

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残念なことに『活字書体の履歴書[青春朱夏編]』には掲載することができなかった。そこで「紅蘭細宋朝体」を使った手作りの栞を作ってみた。

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posted by 今田欣一 at 14:59| 活字書体打ち明け話・2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年08月15日

[余聞2]石井中太ゴシックと石井中太ゴシックLと本蘭ゴシックと

サプトン用に本蘭細明朝体が開発されたときに、ペアとなる見出し用のゴシック体として石井中太ゴシック体(DGKL)が検討された。
しかしながら石井中太ゴシック体は本蘭細明朝体に比べて字面が小さかった。そこで、漢字も含めてそのまま字面を大きくして、細部を調整した石井中太ゴシック体L(DGL)が制作された。その後、電算写植機では本蘭明朝Lと石井中太ゴシックLが基本書体となった。

DG-L.jpeg

石井中太ゴシック体Lが作られたのは入社前のことなので、具体的にどのような制作方法だったかはわからない。入社後の状況から想像すると、光学的に拡大して、フィルム原字で修整したのだと思う。写植会社だけに、写真処理の技術は優れていたのだ。なお、メインプレートやサプトン用文字盤の原版は、写研で開発したマスターマシンという機械を使って製作していた。

のちに本蘭ゴシックを開発したとき、当初は本蘭明朝に合わせたデザインにしていたが、社長より石井中太ゴシックに合わせるように指示があり、大幅なデザイン変更があったと聞いている。
posted by 今田欣一 at 10:12| 活字書体打ち明け話・2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月15日

[余聞2]本蘭アンチック 追記

追記@
関西在住の方に、「定礎」の写真を撮影していただきました。

teiso9210a.jpg

横画の起筆を斜めにすると右上がりになるのが自然であり、横画を水平に運筆するために横画の起筆を垂直に入れるようにしています。試作していた本蘭アンチックを「定礎」用に改良したので、掠法(左払い)の先端が太くなっています。


追記A
1995年の広告を見つけました。

koukoku.jpg

本蘭アンチックUは、本蘭A明朝Uに改名されて発表していました。Aはもちろんantiqueの頭文字です。最初は本蘭横太明朝Uだったのを本蘭アンチックUにしたのですが、広告では本蘭A明朝Uになったのです。私は本蘭A明朝Uには馴染めないので、本蘭アンチックUを使い続けることにしています。
1995年当時、本蘭ゴシック・ファミリー、ナール・ファミリーとともに、本蘭アンチック・ファミリーの開発が進められていました。本蘭ゴシック・ファミリーは、最終的に本蘭ゴシック L、M、D、DB、B、E、H、Uが2000年に発売されました。ナール・ファミリーも、ナールH、Uが加わりました(Bのみ未発売)。
発表したにも関わらず、本蘭アンチック・ファミリーだけがなぜか取り残されています。
posted by 今田欣一 at 19:20| 活字書体打ち明け話・2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年06月05日

[余聞2]本蘭と紅蘭を満開にするために(できなかったけど)

私が38歳のとき(1993年)のインタビュー記事を発掘しました。いまさら自慢話みたいで恥ずかしくないのかと言われそうですが、どういう立場だったかという証明のために、あえて掲載することにしました。

HOI-2-1a.jpg

記事には直接書かれていませんが、文字開発部企画課のメインの仕事は、本蘭書体と紅蘭書体の企画でした。いわゆる「種を蒔く仕事」で、育成、収穫は別のセクションということです。のちに文字開発部デザイングループになり、育成、収穫も担当することになるのですが、私は1996年に退社したので、その後どのようになったかは詳しくはわかりません。書体見本帳などで確認しているだけです。

本蘭グランドファミリーの企画

「本蘭明朝ファミリー」(すでに発売されていました)
1975年:本蘭細明朝発売(1985年:本蘭明朝Lに改称)
1985年:本蘭明朝M、D、DB、B、E、H 発売

「本蘭ゴシックファミリー」
1991年ごろから文字開発部企画課にて企画
1995年:本蘭ゴシックUの広告
【以降は、私の退社後……】
1997年:本蘭ゴシックU発売(2000年:本蘭ゴシックU改訂版発売)
2000年:本蘭ゴシックL、M、D、DB、B、E、H 発売

「本蘭アンチックファミリー」
1991年ごろから文字開発部企画課にて企画(当初は本蘭横太明朝と言っていたが、のちに本蘭アンチックに改称)
1992年:元写研大阪営業所ビル「定礎」の文字に使用
1995年:本蘭A明朝Uの広告(本蘭アンチックを本蘭A明朝として発表)
【以降は、私の退社後……】
※結局、発売されず

紅蘭グランドファミリーの企画

「紅蘭楷書ファミリー」(2書体がすでに発売されていました)
1985年:紅蘭細楷書、紅蘭中楷書 発売
1991年ごろから文字開発部企画課にてファミリー化を企画
【以降は、私の退社後……】
1997年:紅蘭太楷書、紅蘭特太楷書 発売

「紅蘭宋朝ファミリー」(中国語としてすでに発売されていました)
1985年:仿宋体(簡体字版、繁体字版) 発売
1991年ごろから文字開発部企画課にて(日本語の)紅蘭細宋朝を企画
【以降は、私の退社後……】
※結局、発売されず

posted by 今田欣一 at 06:43| 活字書体打ち明け話・2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年06月16日

[余聞2]主たる仕事は、本蘭と紅蘭にあり。

ある人が、あるデザイン誌に、次のように書いています。
「写研時代の今田の書体には創作性が強く感じられたが、今田の書体制作にはいつごろからか大きな変化があったようだ。それに関してはなにも説明していない」(要約)

一方で、別の人も、同じような見方をしています。
「写研時代はおもしろい書体を作る人だと思っていたのに、モノマネみたいな書体を作るようになった。落ちぶれたものだな」

評価が逆なのが面白いですが、どちらも写研時代をタイプフェイス・コンテスト入賞の書体だけで捉えているようです。外から見ると、それしか見えないわけで、こういう見方をされるのは仕方のないことです。何らかの説明はしていると思いますが、忘れているか、聞かなかったことにしているかでしょう。
私は、誰かの影響で考え方を変えたということはありません。あえて言えば、前々から多様な書体に取り組んでいたということです。タイプフェイス・コンテストは個人の立場で、実験的なことをしようと思って応募していました。それも一面ではあるのですが、もちろん主軸は、社員として取り組んだ仕事なのです。

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その代表的な仕事が、本蘭ゴシック・ファミリー/本蘭アンチック・ファミリー、紅蘭宋朝/紅蘭楷書ファミリーです。残念なことに、本蘭ゴシック・ファミリーは種を蒔いただけで、私の力不足と、大きな力の前に、育成、収穫まで立ち会うことができませんでした。本蘭アンチック・ファミリーと紅蘭宋朝は育つことなく消えてしまいました。
無念な気持ちが強いからこそ、記憶をたぐっているところです。
posted by 今田欣一 at 17:47| 活字書体打ち明け話・2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする