2023年07月31日

[追想1]取れなかった有給休暇のはなし

1978年まではクラウンライター・ライオンズでした。写研共済会で後楽園球場(日本ハムの本拠地)のボックスシートの使用を申し込んでナイターを見に行きました。仕事は4時45分までだったので、試合開始には十分間に合いました。

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1979年から西武ライオンズになりました。4月14日(土)の西武ライオンズ球場での第1戦は、ハガキで応募すると抽選で招待券が当たるというのです。ダメもとで申し込んだところ、しばらくして当選の通知が来ました。
当時、土曜日は隔週で休みでした。試合当日は出勤日だったので、はじめて有給休暇の申請をしました。ところが、その申請は通りませんでした。遊びのために有休を使うことはできなかったのです。有休は病気とか怪我とかじゃないとダメだったのです。
直属の上司から、当日の朝に電話を入れれば有休になるよという話がありました。つまり仮病を使えということです。まあ、仮病を使ってまで野球を見に行くこともないので、西武ライオンズ球場の最初の試合を見ることは断念しました。試合はボロ負けでしたが、立花選手の球場第1号は見たかったなあ……。
旅行などで有休を取ることが推奨されるようになったのは何年かのちのことです。
posted by 今田欣一 at 09:37| 活字書体打ち明け話・1 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年08月02日

[追想1]安全衛生委員会の小さなポスターをめぐって

私は1981(昭和56)年7月から安全衛生委員を命じられ、安全衛生委員会のなかの衛生小委員会に所属することになりました。その小委員会では衛生管理を啓蒙するポスターを作っており、そのポスターの制作を担当することになったのです。
今までは手書きで描かれていたのですが、私が担当なので、せっかくだから写植でやろうと考えました。制作していた「秀英明朝」と「かな民友明朝」で組んでみようと思い、直接、部内の写植オペレーターに印字を頼みました。私用ではなく、会社の業務なのだからいいだろうと簡単に考えていました。出来上がったポスターは、安全衛生委員長である労務部長を通して、全部署にコピーが貼り出されました。
ところが、それを見た文字部長に呼び出され、こっぴどく叱られました。私のミスなので仕方ありません。結局、次回からは、私が写植指定をして、労務部長に印字依頼の伝票を起票してもらい、文字部長に承認印をもらい、それで写植オペレーターが印字するという(前例はありませんでしたが)正規のルートでやってもらえることになりました(労務部長に慰められました……)。印字物は、やはり労務部長を経由して、私の手元に届きます。

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それで、なんとか1年間続けることができました。そういう思い出もあり、「秀英明朝」と「かな民友明朝」の最初の使用例でもあるので、今も大事に保存しています。
ちなみに「かな民友明朝」と組み合わせる漢字書体は「秀英明朝」を想定しています。『文字盤見本帳』や当時の記事などにも「かな民友明朝は秀英明朝の漢字と組み合わせてください」と書かれていますし、かな民友明朝の文字盤に入っている約物類は秀英明朝と共有しています。
posted by 今田欣一 at 08:45| 活字書体打ち明け話・1 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年08月04日

[追想1]想い出の九十九里浜


九十九里浜、一宮海水浴場の近くに写研一宮研修センターがありました。私はここに2、3回行ったことがあります。
最寄り駅から始発電車に乗って、東京駅で待ち合わせ。特急列車で上総一ノ宮駅に向かいます。一宮研修センター到着すると、昼食のカレー(恒例)が迎えてくれます。
合宿研修は2泊3日だったと思います。普段はあまり交流のない他部署の人との交流の機会でもあります。人事課で作られたカリキュラムに従い、部長クラスの講義を聞きます。どのような講義があったかはまったく覚えていません。途中で運動の時間もあったと思います。記憶に残っているのは、2日目、3日目早朝の九十九里浜へのランニングです。
一宮研修センターとは別だと思うんですが、「社員研修講座」の修了証が残っていました。1枚は1980(昭和55)年の第4回・一般クラス、もう1枚は1987(昭和62)年の第11回・主任クラスの修了証です。

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1987年までは健全な社員研修が行われていたのです。そう、総務部門担当の専務がいなくなる前までは……。
posted by 今田欣一 at 08:24| 活字書体打ち明け話・1 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年08月06日

[追想1]書道部とか茶道部とか華道部とか

写研共済会は社員の福利厚生のための団体で、『ユッカ』という会報を発行していました。五日市レクリエーション・センターをはじめ、保養所(吉浜・海の家、富士・山の家、草津、苗場、蓼科、宇佐美、江ノ島、京都)の運営、食料雑貨などの斡旋販売、冠婚葬祭の補助などの活動を行っていました。
また、高校の部活のように、運動部では野球部やサッカー部、文化部では書道部、茶道部、華道部などがありました。茶道部、華道部は、外部から先生に来てもらっていたのですが、書道部だけは、(社員の)橋本和夫さんが顧問となって活動していました。
私は書道が上手でもなかったし好きでもなかったのですが、タイプデザインのために少しは知っておいた方がいいということから個人的に通信教育で勉強していました。しかしながら、趣味として楽しんだり師範をめざしたりということを希望していなかったので、書道部には入っていませんでした。

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ちなみにOさんは、書道部はもちろん、茶道部にも所属していました。また、文字部内で華道部に入っている人がいたように思います。
posted by 今田欣一 at 10:08| 活字書体打ち明け話・1 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年08月07日

[余聞1]秀英明朝(SHM)の担当者は誰か?

秀英明朝(SHM)については、いろいろな書物で取り上げられています。特に誰が担当したかは注目されているようです。その部分を抜粋してみることにします。

最初に取り上げたのは『鈴木勉の本』(鈴木本制作委員会編、字游工房、1999)だと思われます。

漢字の復刻は今田欣一氏がチーフとなってまとめ上げた。


続いて、『秀英体研究』(片塩二朗著、大日本印刷、2004)では、3ページにわたって詳しく紹介されています。

実際の漢字制作には数名のスタッフがあたり、印字物の監修はおもには今田欣一があたった。また随時、新井孝・橋本和夫・石川優造・鈴木勉がチェックしていた。

上司の関与を経て、ということですね。

『一〇〇年目の書体づくり』(大日本印刷著、大日本印刷、2013)でも触れられています。

書体の仕様は、写研の鈴木勉、今田欣一氏らがまとめ、実際の制作では漢字は関谷攻、仮名は鈴木勉が取りまとめた。

補足すると、書体の仕様書は私が起票し、上司である鈴木勉氏がチェックしました。さらに漢字書体の実際の制作では私が直接的に監修をしましたが、その時の上司が関谷攻氏だということです。

『時代をひらく書体をつくる』(雪朱里著、グラフィック社、2020)では、橋本和夫氏のインタビューとして書かれています。

仮名は鈴木勉くんが担当し、漢字は今田欣一くんがチーフとなって制作しました。


『杉浦康平と写植の時代』(阿部卓也著、慶應義塾大学出版会、2023)では次のように書かれています。

制作の実務は、橋本和夫の監修のもと、鈴木勉と今田欣一が担当した。


これらのほかに、『書体のよこがお』(室賀清徳・長田年伸編集、グラフィック社、2023)にも書かれているようです。
いずれの書物でも、元社員のどなたかに取材したものと思われます。証言者の立場によって少し異なって感じますが間違いはありません。担当した社員の個人名は(元)社員しか知り得ない情報であり、仕様書や作業方法の詳細をレポートしているものもあります。
株式会社写研から見れば、モラルに反するというのでしょうか?

また、私が担当した秀英明朝の漢字書体制作に関して、『鈴木勉の本』の中のある寄稿文には次のように書かれています。

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漠然とした印象では、以前から写研にあった石井特太明朝(EM)の影響を受け過ぎているのではないかという疑いをもっていた。
SHMとEMをくらべて打ってみた。「世」「伊」では、両者はかなり似ているようだ【図1】。

秀英明朝と石井特太明朝の「世」と「伊」とを例示して「似ている」としていますが、原資料の『明朝初号活字見本帳』(秀英舎、1929)に「世」も「伊」も存在するので、これと比較すれば明らかだと思います。

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異議申し立てをするというほどではないのですが、当事者として、本当のところを資料に基づいて書き残したいと思っているだけです。
posted by 今田欣一 at 08:01| 活字書体打ち明け話・1 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする