当時、岡山のラジオ局RSKで流れていた、「新幹線ができたら…」という歌いだしの「正調ふるさと節」というフォーク・ソングがあった。桃太郎合唱団という岡山操山高校の同級生によるフォーク・グループで、メンバーはそれぞれ東京や京都の大学に進み、夏休みなどに郷里の岡山で、バンド活動をしていた。山陽新幹線の岡山開業は1972年3月である。それ以降は「新幹線ができたよ…」に変わったのだそうだ。
岡山から東京へは山陽・東海道新幹線があったのだが、博多に向かう新幹線はまだなかった。もちろん昼間の特急「つばめ」はあったが、安価な夜行の急行を使うことにしたのだ。1975年の新幹線博多開業までは、和気駅に停車する急行「雲仙3号」を利用することが多かったように思う。
ほとんど眠れなかった。デザイン学科にすすむきっかけとなったふたつの通信教育講座、「レタリング専科」と「近代孔版技術講座」のことが、走馬灯のように頭のなかを駆けめぐっていた。
日本通信美術学園「レタリング専科」受講のきっかけは、もとをたどれば漫画だった。
たしか小学校5年生の頃だった。ぼくは漫画の制作に熱中していた。最初の頃は、ノートに鉛筆で描いていたが、『ぼくらの入門百科 マンガのかきかた』(冒険王編集部、1962年、秋田書店)という本を教科書にして、模造紙に製図用黒インクで描きはじめた。田舎だったので、ケント紙さえ近くの文房具屋にはなかったのだ。
●『ぼくらの入門百科 マンガのかきかた』
小学校低学年の頃からぼくは月刊漫画雑誌『少年』をずっと購読していた。『少年』は、『鉄腕アトム』をはじめ、『鉄人28号』や『サスケ』など人気漫画を掲載していた。ぼくがいちばん好きだったのは、『ストップ!にいちゃん』だった。これらに影響を受けて漫画を描き始めたのだ。なかなかうまく描けず、完成したものはなかった。
漫画のタイトルや学級新聞(壁新聞)のタイトルのために、ぼくが日本通信美術学園のレタリングの講座を受講することにしたのは、小学校6年生の時だった。最初、ぼくにはかなり難しく思えたので躊躇してしまった。日本通信美術学園からはひっきりなしに受講を勧めるDMが送られてきた。思いきって受講することにしたのである。
教材が届いた。デザインの用具も初めて買い揃えた。予想どおり悪戦苦闘で課題の提出はかなり遅れた。小学生のぼくにとって通信教育だけではよく理解できないことがあった。いつもABCの三段階評価でBばかりだった。それでも最終課題まで諦めないで続けていった。通常は6ヶ月だが、延長戦の期限である2年間をフルに使った。1968年8月までかかり、やっとのことですべての課題の提出を終えた。級位認定は最低の6級だった。すでに中学2年生になっていた。
レタリングの技能が役に立ったのは、岡山県統計グラフコンクールへの参加だった。ひとつのテーマについていろいろなグラフを体系的に構成し、わかりやすく、美しく表現するというものである。とくに中学3年のときには1席を獲得し、はじめて新聞に名前が掲載された。文字のデザインが好きになった。
●レタリング専科級位認定証
実務教育研究所「近代孔版技術講座」を受講したきっかけは、もとをたどれば学校新聞だった。
新聞製作に興味を持つようになったのは、小学6年生の時作った学級新聞であった。ぼくの入学した中学校に新聞部はなかった。文芸部では年1回発行の部誌を発行していた。この頃は、何でも謄写版印刷だった。ぼくは文芸部の部員ではなかったが、作文などを投稿した。岡山県の児童生徒作文コンクールに入選していたので、作文には少しだけ自信を持っていた。
中学校3年生になった4月、数名の仲間が参加して新しい「新聞部」がスタートした。新聞の名称は、『ワケッコ』とした。謄写版印刷で、年4回発行という地味な活動であった。生徒会からの連絡や、クラブ活動のレポートといった記事が多かった。『学校新聞ハンドブック』(川野健二郎・佐々木守共著、ダヴィッド社)という本だけを頼りに、自分たちだけで切り開いていった。
高校2年の時、ミニコミ誌に興味を持ち、ミニコミ誌グループを結成した。はじめ、ある雑誌を通じて全国から会員を募り、同人雑誌みたいなものを編集して送付することにした。この同人雑誌を発行するため、小遣いをはたいて簡易卓上印刷器である謄写版印刷機を購入した。これを個人で持っているひとは周囲にはいなかった。そのうえ、文部省認定社会通信教育だった「近代孔版技術講座」を受講したのである。
●「近代孔版技術講座」基礎科第1部テキスト
謄写版は孔版の一種で、俗にガリ版ともいう。ヤスリの上に原紙をおいて、鉄筆で文字を書くことからはじまる。孔版文字の基本書体は楷書体とゴシック体である。楷書体は斜目ヤスリ、ゴシック体は方眼ヤスリを使用する。私の購入したヤスリは、斜目ヤスリと方眼ヤスリとが裏表になっているものであった。
ぼくはもっぱら方眼ヤスリを用いたゴシック体で書いていた。ゴシック体といっても、手書きには変わりないわけだから、活字のように鮮明なものではない。それでも、活字のまねをしたくて、この孔版文字を勉強したのである。
●謄写版印刷機
まとめて押し入れの中にしまってある。二度と謄写版で印刷するということもないだろう。それでも謄写版印刷機も、ヤスリも、鉄筆も捨てられない。思い出の品なのである。
急行「雲仙3号」は博多駅に午前6時13分に到着した。博多駅から鹿児島本線で少し戻り、東郷駅で降車。西鉄バスで、福岡県宗像郡玄海町(現在の宗像市)神湊へ。ここに大学の男子寮、「宗像寮」があった。福岡の夢のはじまりである。