2013年03月24日

[ 吉備の国から]第1回 『平賀元義歌集』に寄せて

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 わたしの出身高校の校門のすぐ左手に、平賀元義の歌碑があるみたいです。高校3年のあいだ、毎日校門をとおっていながら、まったくその歌碑にきづかずにいたのです。たしかそのあたりで卒業アルバムの写真なども撮影されたと思うのですが、この歌碑のことはだれもおぼえていないでしょう。

を新田の穂田は日照りて妹がきる
衣笠山にしぐれ降る見ゆ


 碑のうらには「昭和三十三年十一月三日建之 平賀元義翁歌碑建設会」ときざまれています。でも平賀元義は、この高校と関係なさそうです。じつは、平賀元義の研究者として著名であった当時のF校長の突然の死(自殺)を追悼したものだそうです。
 この歌碑がたてられた経緯は、私がかつて古典の授業をうけたM先生があきらかにされています。このM先生も平賀元義の研究者で、論文も多く著述されています。わたしの在校当時には平賀元義という存在さえも聞いたことはありませんでした。

 正岡子規の『墨汁一滴』には、つぎのようにかかれています。この文章によって、それまではほとんど知られていなかった平賀元義が、歌人としてたかい評価を受けるようになったということです。

 徳川時代のありとある歌人を一堂に集め試みにこの歌人に向ひて、昔より伝へられたる数十百の歌集の中にて最善き歌を多く集めたるは何の集ぞ、と問はん時、そは『万葉集』なり、と答へん者賀茂真淵を始め三、四人もあるべきか。その三、四人の中には余り世人に知られぬ平賀元義といふ人も必ず加はり居るなり。次にこれら歌人に向ひて、しからば我々の歌を作る手本として学ぶべきは何の集ぞ、と問はん時、そは『万葉集』なり、と躊躇なく答へん者は平賀元義一人なるべし。万葉以後一千年の久しき間に万葉の真価を認めて万葉を模倣し万葉調の歌を世に残したる者実に備前の歌人平賀元義一人のみ。真淵の如きはただ万葉の皮相を見たるに過ぎざるなり。世に羲之を尊敬せざる書家なく、杜甫を尊敬せざる詩家なく、芭蕉を尊敬せざる俳家なし。しかも羲之に似たる書、杜甫に似たる詩、芭蕉に似たる俳句に至りては幾百千年の間絶無にして稀有なり。歌人の万葉におけるはこれに似てこれよりも更に甚だしき者あり。彼らは万葉を尊敬し人丸を歌聖とする事において全く一致しながらも毫も万葉調の歌を作らんとはせざりしなり。この間においてただ一人の平賀元義なる者出でて万葉調の歌を作りしはむしろ不思議には非るか。彼に万葉調の歌を作れと教へし先輩あるに非ず、彼の万葉調の歌を歓迎したる後進あるに非ず、しかも彼は卓然として世俗の外に立ち独り喜んで万葉調の歌を作り少しも他を顧ざりしはけだし心に大に信ずる所なくんばあらざるなり。(二月十四日)

                
 岡山県美咲町(旧柵原町)飯岡(ゆうか)に「平賀元義楯之舎塾跡」というちいさな石碑と説明版、歌碑がならんで、ひっそりとたてられています。

山風に河風そひて
飯岡の坂田の御田は
涼しかりけり


 飯岡の南側に赤磐市(旧吉井町)周匝(すさい)があり、どちらも片上鉄道の駅がありました。このあたりから片上鉄道に乗って通学してくる同級生もおおかったのですが、いまは片上鉄道も廃線になってしまいました。
 楯之舎というのは平賀元義の号で、1857年‐1859年のわずか1年半だけ開設していた私塾が「楯之舎塾」です。当時の門弟の子孫にあたる家には、この楯之舎塾で使われていた当時の文机や元義直筆の短冊なども保存されているそうです。
 楯之舎塾では、歌会をひらくほか、神典や史学などを教えていたようです。塾の運営は門人を中心におこなわれていたようですが、1年半で終わったのは、維持するための費用の不足が主原因だとおもわれます。

 『平賀元義歌集』のなかから、和字書体「さきがけ」で組んでみました。

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posted by 今田欣一 at 13:22| 漫遊◇吉備の国から | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月09日

[吉備の国から]第2回 「武元登々庵『行庵詩草』研究と評釈」より

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●「武元登々庵『行庵詩草』研究と評釈」(竹谷長二郎、笠間書院、1995年)

 特別史跡閑谷学校を訪れると、まず目に入ってくるのが閑谷学校の正門「鶴鳴門」です。1701年(元禄14年)の造営で、両袖に附属室がある中国の形式を模しているのが特徴です。聖廟(孔子廟)の正門として建てられたもので、重要文化財となっています。扉をひらくときの音が鶴の鳴き声に似ているということで、この名前があります。
 藩主の通るのが御成門(公門)で、生徒や聴講者は飲室門(通用門)から出入りしていました。武元登々庵も、飲室門(通用門)から出入りしていたと思いますが、鶴鳴門は内から外から見ていたことでしょう。

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●特別史跡閑谷学校

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●閑谷学校資料館

 武元登々庵という名前を知ったのは、私の母校である『和気閑谷高校創立325年誌』で紹介されていたからです。遠い先輩にあたり、書家で詩人というところに興味を持ちました。登々庵とは、拓本をとるときの「トントン」という音にちなんでいるそうです。
 武元登々庵の作品を主として所蔵する全国でも珍しい書道中心の美術館が、備前市吉永美術館です。現在は企画展を開催する時だけ開館しているようで、まだ行ったことはありませんが、『武元登々庵の生涯と詩書』(米村昭二、吉永町美術館、2002年)という本が発行されていました。武元登々庵とはどういう人物かを少しでも知りたくて、さっそく購入してみました。
 この書物は、武元登々庵の幼少時代からの足跡をたどりながら、彼の代表作『古詩韻範』『行庵詩草』を中心に、その内容や書かれた背景、交友関係などを詳しく紹介しています。

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●漢詩論『古詩韻範』

 私の母校のルーツとされる閑谷学校は、備前藩主・池田光政が地方の指導者育成を目的として、1670年(寛文10年)に設立した藩営の学校です。武士のみならず庶民の子弟も教育したことから、世界最古の庶民学校といわれています。
 武元登々庵については、デジタル版『日本人名大辞典』(講談社)に、つぎのように記されています。

武元登々庵 たけもと・とうとうあん
1767-1818 江戸時代中期-後期の漢詩人、書家。
明和4年2月15日生まれ。備前岡山藩閑谷〔しずたに〕学校にまなび、諸国を遊歴、長崎で蘭学をおさめる。のち京坂地方で頼山陽、菅茶山〔かん・ちゃざん〕、田能村竹田〔たのむら・ちくでん〕、浦上春琴〔しゅんきん〕らとまじわった。文化15年2月23日死去。52歳。備前出身。名は正質。字〔あざな〕は景文。通称は周平。別号に行庵。著作に「古詩韻範」「行庵詩草」など。


 さらに『行庵詩草』の漢詩を読みたくて「武元登々庵『行庵詩草』研究と評釈」(竹谷長二郎、笠間書院、1995年)を買いました。少し高価でしたので、ためらったあげく決心しました。
『行庵詩草』は遍歴の土地ごとの詩草を集めたもので、「生涯一片青山」から一字ずつを取って、巻一は生集「薇山吟月」、巻二は涯集「嚴島眠雲」、巻三は一集「赤馬觀濤」、巻四は片集「紫溟弔古」、巻五は青集「瓊浦探奇」、そして巻六は山集「泛庵餘興」という構成です。
「薇山吟月」は、岡山から尾道に至るまでの作品58首をおさめています。薇山とは西備の山々のことです。「嚴島眠雲」は、広島と宮島に遊んだ時の作です。「赤馬觀濤」で宮島から九州をめざし、「紫溟弔古」で小倉、太宰府、唐津、「瓊浦探奇」で長崎を旅したあと、帰途についています。「泛庵餘興」は、郷里に戻ってからの作品のようです。

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● 漢詩集『行庵詩草』

『行庵詩草』のなかから、漢字書体「龍爪」で組んでみました。
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posted by 今田欣一 at 20:28| 漫遊◇吉備の国から | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月30日

[吉備の国から]第3回 『フレイへイドの風が吹く』を行く

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 『フレイへイドの風が吹く』(市原麻里子著、右文書院、2010年)は、箕作阮甫が主人公の小説です。この小説でキーワードとして使われているのが「フレイへイド(vrijheid)」というオランダ語のことばです。
 『フレイへイドの風が吹く』をきっかけにして、箕作阮甫の軌跡をたどってみました。

◇フレイへイド紀行〈1〉 箕作阮甫旧宅(津山市)

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●箕作阮甫旧宅(国指定史跡)

 漢詩人・武元登々庵が学んだ閑谷学校のある備前市閑谷から、万葉風歌人・平賀元義の楯之舎塾のあった美咲町飯岡を経て、さらに吉井川をさかのぼると、津山市に入ります。そこには洋学者・箕作阮甫の旧宅があります。
 箕作阮甫旧宅は、明治から大正年代にかけては鍛冶屋や豆腐屋などに使用されていたそうですが、「洋学者箕作阮甫が生まれ少年期を過ごした生家であり、その人格形成と活躍の素地に大きく影響を与えた場所」として、史跡として指定されています。
 箕作阮甫は、幼少期に儒学を学び、文化13年(1816年)には京都に出て三年間医術を習得しました。文政6年(1823年)、江戸で宇田川玄真の門に入り、蘭学の習得に努めました。以後、学問研究のため三年間の江戸詰を経て、天保2年(1831年)には家族とともに江戸に転居、天保10年(1839年)には幕府天文台に出役しました。

◇フレイへイド紀行〈2〉 適塾

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●適塾(国指定史跡・重要文化財)

 地下鉄御堂筋線に乗り換えて淀屋橋で降りると、徒歩数分のところに史跡・重要文化財「適塾」があります。閑谷学校出身の大鳥圭介もこの適塾で2年間あまり蘭学を勉強しています。
 適塾は、蘭医学者の緒方洪庵が大阪に開いた幕末第一の蘭学塾でした。文法のテキストには『ガランマチカ』、文章論のテキストには『シンタキス』がもちいられました。これらはオランダで発行されたオランダ語の書物ですが、箕作玩甫によって『和蘭文典 前編』および『和蘭文典 後編』として木版で翻刻されていました。
 これらをまなんだのちに、会読(同じ書物を読み合って、その内容や意味を研究し論じ合う)に加わることになります。会読は各級ごとに5日おきぐらいにおこなわれます。
会読にもちいる原書は一部しかないために、塾生たちは各自で筆写して予習したそうです。

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●『和蘭文典 前編』(ガランマチカ)
オランダで刊行されたオランダ語文法の教科書(Grammatica of Neederduitsche spraakkuunst)を、天保13年(1842年)に箕作阮甫が筆記体による整版(木版印刷)で翻刻した。適塾ではこの『和蘭文典 前編』が初心者用のオランダ語教科書として用いられ、半年で修了した。


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●『和蘭文典 後編』(シンタキス)
オランダ語構文の教科書(Syntaxis of woordvoeging der Nederdutische taal)で、『和蘭文典 前編』と同じく、箕作阮甫が筆記体による整版(木版印刷)で翻刻した。『和蘭文典 前編』を終えた者が引き続きオランダ語の構文を学習するための教科書で、『和蘭文典 前編』同様、適塾では半年間で修了した。


◇ フレイへイド紀行〈3〉 蕃書調所跡(東京都指定旧跡)

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 箕作阮甫は、アメリカ合衆国使節ペリ―来航時の外交文書の翻訳、ロシア使節プチャ―チンが長崎に来航したときの外交書簡の翻訳に携わっています。安政3年(1856年)には蕃書調所教授職となっています。蕃書調所跡(東京都指定旧跡)は、九段下駅の近くにあります。
 蕃書調所は、江戸幕府の洋学研究と教育のために設置された機関です。洋書洋文の翻訳・研究、洋学教育、洋書・翻訳書などの検閲、印刷・出版などにあたりました。担当する教授方に箕作阮甫ら著名な洋学者が任ぜられたのです。
 当初、設置科目は蘭学1科でしたが、英・仏・独の外国語、および科学技術部門諸科がつぎつぎに開設されています。のちに開成所と名称を変えました。大鳥圭介も開成所教授をつとめています。
posted by 今田欣一 at 19:48| 漫遊◇吉備の国から | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月01日

[吉備の国から]春の旅 スリー・デー・ウォーク

箕作阮甫を歩く 2015年3月28日(土曜日)
5月並みの暖かさのなか、岡山駅から津山線「快速ことぶき」で、70分のローカル線の旅です。
津山駅で、「箕作阮甫銅像」に迎えられました。25歳の頃をモデルにしているそうです。津山の洋学者を代表する偉人ということでしょうか。

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駅前から今津屋橋を渡り、城東伝統的建造物群保存地区へ向かいました。しばらく進むと、「箕作阮甫旧宅」が見えてきます。ここに来たのは2回目ですが、そのまま変わりない雰囲気でした。

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1975年から1976年にかけて解体復元工事が行われ、国指定史跡に指定されています。解体前の写真が展示されており、その損傷の激しさと、復元の状況を知ることができます。

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「箕作阮甫旧宅」に隣接して「津山洋学資料館」がありました。以前訪れたときは旧妹尾銀行林田支店を利用した建物だったのですが、2010年に現在の場所に新しく開館していました。富田玲子氏の設計によるものです。前庭には洋学者のブロンズ像も集められていました。

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展示室[2]は「世界に開かれていく眼 阮甫が生きた時代」と題され、箕作阮甫を中心に構成されていました。箕作阮甫の生涯を描いた数分間の映像も見ることができました。

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●『津山洋学資料館常設展示図録』より

近くには「城東むかし町家(旧梶原家住宅)」があり、こちらは国登録有形文化財に指定されています。
せっかく津山に来たのだからと、桜の名所として知られている「鶴山公園(津山城跡)」に行ってみました。屋台も出て、多くの人が訪れていましたが、肝心の桜は残念ながらまだ蕾でした。

武元登々庵を歩く 2015年3月29日(日曜日)
朝のうち降っていた雨もあがって、きょうも暖かい1日になりました。山陽本線の吉永駅から、武元登々庵も学んだ「特別史跡・旧閑谷学校」に歩いて向かいました。小学生の時から何度も訪れている慣れ親しんだ道のりです。
重要文化財「鶴鳴門」は、後方にある聖廟(孔子廟)の正門として建てられたものです。藩主でさえ御成門(公門)を通り、生徒や聴講者は飲室門(通用門)から出入りしていたそうです。

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国宝「講堂」では、論語の講義を受けたことが何回かあります。花頭窓と欅の円柱が荘厳な雰囲気を醸し出します。鏡のように磨かれた床は、代々の生徒によって磨き込まれたものです。私もその端にいます。

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「閑谷学校資料館」は、江川三郎八(1860−1939)が1903年に設計し和気の大工によって竣工・建築された「私立中学閑谷黌」本館を利用して、1995年に開館したものです。2001年に国登録有形文化財に指定されています。

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「3号室」では「閑谷学校の教育」と題され、儒学を中心とした教育内容と、教官・生徒が紹介されていました。生徒の中で、大きく取り上げられているのが武元登々庵と大鳥圭介でした。

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●『閑谷学校資料館図録』より

「旧閑谷学校」に隣接して、現在の閑谷学校「岡山県青少年教育センター閑谷学校」があります。

おもに武元登々庵の書作品を所蔵する「備前市吉永美術館」にも立ち寄ってみました。現在は企画展開催時のみ開館するということで、きょうは外観だけを見てきました。

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平賀元義を歩く 2015年3月30日(月曜日)
きょうのスタートは我が母校、岡山県立和気閑谷高校から。校門から和気富士(曽根城跡)が臨めます。

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校門のすぐ左手に、平賀元義の「を新田の穂田は日照りて妹がきる衣笠山にしぐれ降る見ゆ」歌碑があります。平賀元義の研究者として著名であった故藤本實校長を追悼したものだそうです。かつて古典の授業をうけた正務弘先生も平賀元義の研究者で、論文も多く著述されています。

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ガイドブックとして岡山文庫『平賀元義を歩く』を手に、和気駅前から路線バスで40分、天神山城跡の麓を通って吉井川沿いを遡り、周匝(すさい=赤磐市)まで行きます。
(岡山駅前からは林野(美作市)行の路線バスが周匝を経由しています)

周匝から歩いて吉井川に架かる飯岡橋(片上鉄道鉄橋跡)を渡ると対岸が飯岡(ゆうか=美咲町)です。美作飯岡駅跡を通り、しばらく歩いて行くと「平賀元義楯之舎塾跡」というちいさな石碑が建っています。楯之舎というのは1857年−1859年のわずか1年半だけ開設していた私塾です。

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石碑の後方には説明板がありました。楯之舎塾では、歌会をひらくほか、神典や史学を教えていたようです。この時代が平賀元義のもっとも充実しており、多くの門人がいました。

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石碑と並んで「山風に河風そひて飯岡の坂田の御田は涼しかりけり」歌碑が建てられていました。

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時間があったので周匝にもどり、旧備作高校(2007年、和気閑谷高校に統合された)近くの吉井城山公園(茶臼山城跡)に登ってみることにしました。ここから飯岡集落を一望できます。
posted by 今田欣一 at 23:18| 漫遊◇吉備の国から | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月07日

[吉備の国から]2019年初春の旅

2019年1月2日、倉敷・蟲文庫を訪ねて

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田中美穂さんの『わたしの小さな古本屋』を読んでから、いつか訪れたいと思っていた「蟲文庫」にやっと来ることができました。『わたしの小さな古本屋』のジャケットには「きざはし金陵M」が使われていました。

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風情のある街並みに溶け込んで、素敵な場所にありました。

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思っていたよりさらに小さな空間でした。古本屋なのですが、観光客でいっぱいになっていました。記念に文庫本一冊を買ってきました。

近くの阿智神社で初詣。最近は参拝が行列になるようです。境内の能舞台では「三女神の舞」が行われるということでしたが、私がお参りした時間は何かのライブが行われていました。

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倉敷川河畔を散策してから帰途につきました。

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2019年1月3日、片鉄ロマン街道を歩く

高校時代には通学で利用していた片上鉄道が廃線になって25年になります。今は片鉄ロマン街道というウォーキング、ジョギングandサイクリング・ロードになっています。久しぶりに歩いてみることにしました。

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旧清水駅はホームが残されており、周辺は公園として整備されていました。近くに「ギャラリー&蕎麦 栂」があるのですが、年末年始は休業でした。

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旧清水駅から旧中山駅に向かって歩きました。跡形もなくなっている旧中山駅を通り過ぎてさらに進むと、備前焼作家・宮尾昌宏さんの工房があります。継承されていってこその伝統工芸です。

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備前焼といえば、マンガ「ハルカの陶」。映画化されるそうです。

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2019年1月4日、旧閑谷学校・読初の儀

ことしも旧閑谷学校の恒例行事「読初の儀」に、高校生(和気閑谷高校、備前緑陽高校)にまじって参加しました。以前は「読始の儀」と言っていた気がしますが、ことしは「読初の儀」になっていました。記憶違いだったのでしょうか。

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参加者全員、聖廟で孔子像に拝礼しました。

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講堂で論語の朗唱と解釈。そして、新年の抱負の発表。高校時代に戻ったような気分を味わいました。

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最後に全員で講堂の掃除をしました。テレビや新聞の取材も入っていたので、ローカルニュースで出るはずです。

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閑谷学校を舞台にした小説です。

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posted by 今田欣一 at 21:46| 漫遊◇吉備の国から | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする