2013年04月17日

[コンペは踊ろう]第1章 装飾書体の時代(1)

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●第5回石井賞創作タイプフェイス・コンテスト応募書体 1978年

 1977年はすなわち社会人1年目である。私は、第5回石井賞創作タイプフェイス・コンテストに出品するにあたって、ゴナUとスーボのようなウルトラボールドのウエイトの書体の設計を考えていた。
 当時は本文用を制作する力量はないと自分で判断していたのだ。そこで当時の写真植字用の書体としては筆書きのウルトラボールドのウエイトの書体が少ないことに注目した。そこで、江戸文字のイメージを取り入れた書体を制作してみることにしたのだ。
 ひとくちに江戸文字といっても、いろいろある。歌舞伎の勘亭流や、寄席文字、相撲文字は、それぞれの世界で特有のものとして伝承されている。もう一つの代表的なものに千社札や半纏などに見られる江戸文字がある。この文字は、太い筆で墨をたっぷりつけて書くのではない。輪郭を決めてから塗り込んでいく、書とは全く異質の、勘亭流などとも違う、装飾的なつくり文字で、半纏・暖簾・手拭など染色用の文字としても広く活用されている。
 私は、東京下町の情感溢れる豪快さを持つこの江戸文字を意識しつつ制作を始めた。なかなか思うようにいかなかった。初めての挑戦だった。締め切りの1978年1月31日が近づくと、とにかく出品することだけを考えていた。精一杯やったし、当時としてはそれなりに満足できるものであった。
 この処女作が結果として佳作になったので、私の喜びは大きいものだった。しかし、これまでのウルトラ・ボールドの書体に対しての提案としては力不足だし、江戸文字の持つパワーにははるかに及ばない。とにかくオリジナルを超えるのは、とっても難しいことだと思った。
posted by 今田欣一 at 19:46| 活字書体の履歴書・第1章(1977–1983) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月18日

[航海誌]第6回 オプチマ(写研バージョン)

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●オプチマ 写真植字機用文字盤

 ヘルベチカのファミリーを制作し終えて、引き続きオプチマのファミリーを制作することになった。オプチマはステンペル社とのライセンス契約に基づくものである。
 オプチマは、ステンペル社から原図を送ってもらっている。送られてきたのは、ヘルベチカとは異なり写植用のフィルム・シートだった。比較的大きなサイズだったと記憶している。少なくとも、ヘルベチカのような復刻というべき作業はなかったわけである。さしずめ移植である。
 過去の優れた書体を次の世代へ繋ぐという仕事は、文化的にも意義深いことである。私がこのような先達の業績を実体験できたことは、まことに幸運だったと思われる。この時の経験が、今の私のベースにあるといっても過言ではないと思う。
 欧字は、漢字よりさらに数値で管理されていた。まずライン、サイド・ベアリングなどの基準が設定されるが、とくにスペーシングの基本となるサイド・ベアリングは「データ・シート」を作成していた。ボディ・サイズは、80mmサイズで設計された。

 本文用に使われる場合には10Qとか12Q、見出し用でも100Q以下だから、制作時の80mmサイズとは、見え方にかなりのギャップがある。そのギャップを埋めるために、廃棄された写真植字機から拾ってきた凹レンズで見ながら制作したものである。
 日本の写真植字機の場合、日本語書体の印字に適するように設計されているので、ヨーロッパのメーカーとのライセンス契約によって発売する書体をそのまま使うことはできなかった。オプチマの原字が写植用ということであっても、16ユニット・システムに変換しなければならないということに変わりはない。オリジナルは18ユニット・システムで作られていたので、大きな変更はなかったものの、それでも組み見本などでのサイド・ベアリングの測定という作業は相変わらず残った。

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●18ユニット・システムの説明図
『欧文組版入門』(ジェイムズ・クレイグ著、組版工学研究会監訳、朗文堂、1989年)より

 デジタル・タイプのプロポーショナルの欧字書体では、これらの条件が解消され、ヨーロッパのメーカーによる欧字書体とほとんど変わりなく制作できるようになった。漢字・和字とマッチさえすれば、ヨーロッパのメーカーの欧字書体との組み合わせも容易になったということでもある。写研の欧字書体は、日本語書体がたとえオープンタイプになったとしても、しずかにその役割を終えるべきものであろう。
posted by 今田欣一 at 19:08| 活字書体の履歴書・第1章(1977–1983) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月19日

[航海誌]第7回 ユニバース(写研バージョン)

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●ユニバース 写真植字機用文字盤

 写研のユニバースについて、『文字百景023 新ユニバースのテンヤワンヤ』(飯山元二著、朗文堂、1996年)で触れられている。かなり前に書かれたものだが、外部から見た写研に対する印象の一例であろう。制作の実態をあきらかにするためにも、引用したうえで補足しておきたい。

写研の改刻は、ライセンスはたぶんに名目上のものにとどまったようです。A-Zレングスにはほとんど異同は認められません。むしろ字形のカーブ、隙とりなどに微細な手がはいっています。すべての起筆・終筆に「盆のくぼ」がほどこされています。このようなE19番台からE102番台への改刻が、だれの手になるものかは公表されていません。とても誠実で、手なれたひとの技と思いますが、わたしはいささか過剰な解釈だったと思います。


 写研にはもともとユニバース(文字盤コード:E19)という書体があった。この書体がどのようにして制作されたかは知らない。ヘルベチカ(文字盤コード:E100)からは欧米のメーカーとの正式なライセンスに基づいた欧字書体を制作しようということになっていた。その第3弾がユニバース(文字盤コード:E102)だったのである。これにともない、旧ユニバースは販売を中止している。このことから、「E19番台からE102番台への改刻」との誤解が生じていたのかもしれない。
 もちろんヘルベチカと同様に、ユニバースもハース社とのライセンス契約に基づくものであることは確かである。ハース社から原図を送ってもらっている。送られてきたのは写植用のフィルム・シートだった。われわれは制作時に旧ユニバースをまったく見ていない。オプチマと同じような方法で制作していったので、「A-Zレングスに異同は認められない」とすれば偶然一致しただけだろう。
「過剰な解釈」と指摘されたエレメントのエッジの「角出し」や交差点の大きな「隅取り」については、写植用のフィルム・シートということで、ユニバースのオリジナル原図に付けられていたものである。「とても誠実で、手なれたひとの技」というのは、むしろハース社のタイプ・デザイナーに向けられるべきものだと思う。
 とくに「角出し」については、今までに写研で制作した書体では例がないことであり、これを尊重するかどうかを慎重に検討した。通常は印画紙に印字して検討するのであるが、この書体では印刷のテストまでおこなった。書体制作で印刷のテストをするのはまれである。その結果、基準とするQ数においては当時の手動写植機では有効であろうということになった。ただ、オリジナルのままでは目立ちすぎるので、やや控えめに変更した。

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●「角出し」と「隅取り」

 当時の手動写植機やアナログ式の自動写植機ではどうしてもエッジが甘くなるので、日本語書体でも本文用では隅取りをすることが行われていた。そのことがユニバースの角出しや隅取りを残す判断になったと思う。本文用ということで制作した書体でも見出しに使われることもあって、写研のデジタル・フォントでは全ての書体で隅取り処理はなくなっている。

※2013年5月10日 修正
posted by 今田欣一 at 19:33| 活字書体の履歴書・第1章(1977–1983) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月20日

[コンペは踊ろう]第1章 装飾書体の時代(2)

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●第6回石井賞創作タイプフェイス・コンテスト応募書体 1980年

 石井賞創作タイプフェイス・コンテストは、商品として発売することが約束されてはいなかった。主催者である写研が商品として別に検討したうえで、契約上の諸条件が合意されたものが商品化されたのである。第1回の「ナール」がヒットしてしまったので、商品開発のためのプレゼンテーションの場になってしまったように思える。主催者が一企業であるという宿命なのかもしれない。
 しかしながら私にとってコンテストというものは新しい提案の場であった。日常の業務からはなれて、挑戦的・挑発的なものを作っていこうと考えていた。実際に市場に出たとき、どう使われるかということはまったく考えていなかった。
 第6回石井賞創作タイプフェイス・コンテストに応募するにあたって、運筆に沿ったラインによる書体を制作した。この書体は、木版画を思わせる素朴な暖かい味わいのある「質感」を表現したかった。木版画といっても浮世絵のような板目木版ではなく、木口木版の鋭利で細密なテクスチュアをイメージしていた。それに加えて、「量感」をも感じさせるようにラインの太さと交差の処理を工夫した。
 その結果として、丸い柱と梁をもった石造りの建築物のような書体ができあがった。もちろんすべて手書きである。それぞれのラインの太さを変えることによって立体感をあらわした。間隔をコントロールすることにも気を使わなければならなかったので、思った以上に手間のかかる書体になった。
 幸いなことに、この書体は第6回石井賞創作タイプフェイス・コンテストで第3位になった。だが自分自身では決して満足できるものではなかった。それは泥臭いイメージのものになってしまっていたからである。
 さらに幸いなことに、この書体を商品化しようという話は主催者からなかった。3位までに入った書体には写研に商品化の権利を自動的に譲渡するというのが応募の際の条件となっていたので、商品化の可能性はあったわけだ。もし商品化するということにでもなっていたら、何千字も制作しなければならなかったところだ。精神的にまいってしまったかもしれない。
posted by 今田欣一 at 17:19| 活字書体の履歴書・第1章(1977–1983) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月25日

[コンペは踊ろう]第1章 装飾書体の時代(3)

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●第7回石井賞創作タイプフェイス・コンテスト応募書体 1982年

 第6回石井賞創作タイプフェイス・コンテストに出品するための過程で、私はもうひとつの試作をはじめていた。
 江戸切子にみられるカット技術による模様を応用し、ウルトラボールド・ウエイトの文字を構成する広い平面に濃度ムラを表現しようとしていた。それは作為的ではなく自然な味わいで描写することが必要であった。ドローイングのような階調が、頭に浮かんでいた。1978年春のことである。
 その年の夏の最初の試作では、菱形を並べて作った文字が目に痛いほどチラチラしていた。錯視による線の歪みも激しいものだった。
 1980年の秋。ふと思いついて、印刷に関する書物をめくってみた時である。単線スクリーンによる図版が目に止まったのだ。『デザイン整版』再版(小池光三編著、印刷学会出版部、1972年3月)である。その図版の単線スクリーンの平行線は先端が丸くなっていたので、私には紡錘形に感じられた。菱形から紡錘形へ、この些細な事がすべてを解決した。視覚的な線の歪みをある程度抑えてくれ、美しい階調が表現できたのである。

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●L.Bellson"Percussion"のレコード・ジャケット(部分)

 写真製版において階調の再現にもちいられていたスクリーンは、錯覚によって階調を再現したかのように見せるためのものである。大日本スクリーン製造という社名の由来は、設立当時に主要製品として製造していたガラス・スクリーンにある。同社の前身である「石田旭山印刷所」はこのガラス・スクリーンの国産化に成功し、1943年にガラス・スクリーンのメーカーとして大日本スクリーン製造株式会社を設立した。
 スクリーンには、規則的で均一な大小の点に置き換える方法の網目スクリーンや、不規則な素粒子に置き換える方法の砂目スクリーンがある。単線スクリーンは、階調のある画像を多数の平行線に置き換えたものである。歴史的には網目スクリーンより前にあらわれている。再現性は悪いが、単線スクリーンの迫力はイラストレーションのような効果が期待できる。
 タイプフェイスで濃淡を作る手段として選んだのが、単線スクリーンのダイナミックなイメージであった。網目スクリーンや砂目スクリーンでも濃淡を作ることは考えられるが、この単線スクリーンの迫力にはかなわないだろう。(つづく)
posted by 今田欣一 at 19:10| 活字書体の履歴書・第1章(1977–1983) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする