社長の文字開発部への関与はますます強くなっていきました。社長の決裁がないと仕事が動かせないのですが、社長は多くの部署の部長を兼ねていたので、とても手が回らないのは明らかでした。週一回あるかないかの御前会議では何も進みません。
社長は基本的に、毎週木曜日午後4時に埼玉工場にやってきました。それから開発部との打ち合わせが始まります。それが終わると文字開発部が呼ばれます。いつ始まるかわからないので、それまで待機していますが、8時、9時から始まることもしょっちゅうでした。結局時間切れになってしまうこともありました。
また、社長は現場にいるわけではないので、担当者の説明を理解するのも難しいという状況でした。そうなると決裁を保留することも多くなってきました。そうなると仕事の指示ができないということが起こりました。40名近くいる課員を遊ばせることもできず、何らかの仕事の指示を独断でも出さざるを得ない状況に追い込まれました。
1996年になって、悪意のない密告(状況をよくしようという提案だったと思う)が社長にもたらせることになり、内田次長、私ともども役職を解かれました。私は労務部長付へ異動になりました。
暗い気持ちのなか、第14回石井賞創作タイプフェイスコンテストで第2位となり、この書体も商品化が決定されました。しかしながら、またまた光明……とはなりませんでした。私は忍耐の限界に達していたのです。
夏の終わりに、私は写研を退社(自己都合による円満退社)しました。相談した方からも退社を勧められていました。退社時の所属は労務部長付でした。