そして橋本和夫さんが文字開発部長に昇進されました。私は、新しくできた「企画課」の係長補佐になり、さらに1993年には課長代理に昇進しました。「デザイン制作課」は石川課長がそのまま担当されました。
ここに至って、やっと、やっと、念願の「本蘭ゴシック」「本蘭アンチック」、そして「紅蘭宋朝」「紅蘭楷書」の各ファミリーの開発に取り組むことができると張り切っていました。これが私の本来取り組むべき仕事だと思っていたのです。
「本蘭ゴシック」「本蘭アンチック」の企画が、いつ、どのように始まったのか、もう30年も前のことであるし、詳しいことは覚えていません。「本蘭アンチックU」が1992年10月竣工の大阪営業所ビルの「定礎」に使われているので、その頃には企画していたと思われます。「本蘭ゴシック」「本蘭アンチック」は「本蘭明朝」のグランド・ファミリーとして、同時に企画しました。
「本蘭ゴシック」が他社の某人気書体に対抗して制作されたという関係者の証言もあったようですが、企画段階でそのような意図があったということは聞いたことがありません。おそらく営業上のことだったと推察します。私個人としては、字游工房で制作されていた「ヒラギノゴシック体」をライバル視していました。
「本蘭ゴシック」と「本蘭アンチック」は、1995年の写研創業70周年に発表できるように制作の準備を進めていました。しかしながら、私の力不足もあって、それは、なかなか思うようにいきませんでした。
一方、「紅蘭宋朝」と「紅蘭楷書」のファミリー化についても写研創業70周年に発表できるようにしたかったのですが、こちらは企画案さえ出すことさえできませんでした。しばらくは私の心の中に仕舞い込んでいました。