1989年3月に鈴木勉さん、岡田安弘さん、小林章さんが退社されました。その後も退社する人が後を絶たず、毎月のように送別会が行われる事態になりました。そして夏には、鳥海さん、片田啓一さんが退社していきました。さらに関谷係長も別のセクションへ(希望して)異動になりました。
退社の理由はそれぞれで違うようです。鳥海さんは『文字を作る仕事』(晶文社、2016年)で、小林章さんは『欧文書体 その背景と学び方』(美術出版社、2005年)で書いています。私の勝手な想像ですが、その奥底には、1988年の激震がひとつの引き金になったように思えるのです。
私はというと、第10回石井賞受賞の書体を制作していたので、すぐに退社するという選択肢は考えませんでした。
その年の9月に、鈴木勉さん、鳥海さん、片田さんの3人が「有限会社字游工房」を設立することになります。小林章さんはイギリスに、岡田さんはオーストラリアに旅立って行きました。2人とも、帰国後、字游工房に参加しています。字游工房は実質的に、退職した元社員の受け皿のようになっていきました。
私からすれば字游工房の設立は衝撃的でした。なにしろ当時の文字開発部の中心だったメンバーが突然ライバルになったのです。レギュラーメンバーの大半が新チームを結成したようなものですから、文字開発部としてのチーム力が急激に落ちたということは否定できません。ですが、残されたメンバーでやるしかありません。
文字開発部でも動きがありました。M課長が病気を理由に更迭されたのです。思えばM課長こそ最大の犠牲者だったと思います。それは8年後に、身をもって思い知ることになります。
文字開発部次長として長村玄さんが異動してこられました。「デザイン課」と「制作課」が合体して「デザイン制作課」となり、橋本和夫さんが課長に復帰されました。つまりデザイン制作課は、橋本課長と石川課長の2人体制になったのです。文字開発部長は事実上、社長兼務のままだったので、次長・課長クラスは精神的に大変だったと想像しますが、一社員としてみたら職場の雰囲気は落ち着いてきたように思われました。