明朝体・ゴシック体・アンチック体が基本的な3書体ということなのである。『デジタル大辞泉』の「活字書体」の項にも次のように書かれている。
活字書体
活字として、印刷を前提にデザインされた書体。和文には明朝(みんちょう)体・ゴシック体・アンチック体など、欧文にはローマン体・イタリック体・ゴシック体・スクリプト体などがある。
写真植字機を普及させるために、どうしても必要な書体だったのだろう。当初は東京築地活版製造所の活字をコピーしていたが、写真植字機での印字ではうまくいかず、試行錯誤を繰り返して、写真植字機にマッチした独自の書体を作り上げた。
石井中明朝体+オールドスタイル小がな(1933年)
東京築地活版製造所の12ポイント活字を模して制作していたが(「仮作明朝」)、当時の写植文字盤の精度では、横線がとびやすくなるなどの欠点があった。
そこで、あたらしい「明朝体」の設計においては縦線、横線の比率を検討した。すなわち横線を太く縦線を細くした。さらに横線の起筆に打ち込みをつけるようにした。
写真植字機の特性を最も生かした「明朝体」をめざすことと、石井の個性とが結ばれて、結果的に毛筆の味わいのある優美な書体となった。それが石井書体として評判を呼び、写真植字機の普及へと繋がることになる第一歩であった。
なお、当初は「明朝体」だったが、「細明朝体」が完成したときに「中明朝体」となり、さらに「本蘭細明朝体」などと区別するために、「石井中明朝体」と改名された。
石井太ゴシック体+小がな(1932年)
石井は「明朝体」の制作と並行して「太ゴシック体」の制作にも着手した。「太ゴシック体」も写植文字盤の特性を生かすように設計されている。
金属活字のゴシック体は同一の太さで均一に設計されていたが、この「太ゴシック体」では起筆、収筆が太くなっている。「明朝体」と同様に、毛筆の味わいをとりいれた優美な書体に仕上がった。
アンチック体(1935年)
つづいて石井が取り組んだのが「アンチック体」である。当時、印刷業界の要望が多かったのだろう。ところが「特殊文字盤」扱いで、詳細について書かれたものがない。今でも単なる「アンチック体」のままであり、「石井アンチック体」となっていない。不憫な書体である。
残念なことに「アンチック体」の漢字書体は制作されてはいない。おそらく使用目的が辞書用とされていたか、最初から「太ゴシック体」の漢字書体と組み合わせることを前提としたのだろう。
上:アンチック体(中見出し用)、下:オールドスタイル小がな
筆者は「アンチック体」の漢字書体を試作してみたことがある(下図の左、2002年試作)。『富多無可思』(青山進行堂活版製造所、1909年)に掲載された「五號アンチック形」見本(下図の右)を参考にした。
イメージとしては、欧文書体の「スラブセリフ」に近く、中文書体の「黒宋体」のように、「宋体」と「黒体」の中間である。