2014年08月24日

[偉人伝]第1回 石井宋朝体と石井教科書体

石井茂吉(1887−1963)が制作した書体のうち、金属活字にもなったふたつの書体をとりあげてみたい。ひとつは名古屋の津田三省堂の宋朝体活字になった「石井宋朝体」、もうひとつは東京書籍の教科書体活字になった「石井細教科書体」である。どちらも石井らしい優美な書体となっている。

 石井茂吉が最後に取り組んだ書体が「石井宋朝体」である。この書体は、1959年(昭和34年)に、津田三省堂の津田太郎氏からの依頼により制作された。完成したのは、石井茂吉没後の1965年(昭和40年)になってからである。漢字書体は、活字の原字として提供されている。
 津田三省堂の宋朝活字は、上海・中華書局の「聚珍倣宋版」活字を輸入したのであり、その源流は宋代の「臨安書棚本」に通じている。津田三省堂宋朝活字には、本文用の方体と、もともとは割注用の長体があった。「石井宋朝体」は割注用の長体であった。
 石井はそれまでの津田三省堂宋朝活字には不満を持っていたようで、単なる復元ではなく現代的で美しい宋朝体として制作しようとしていた。たしかに従来のものより気品のある優美な書体となった。組み合わされる和字書体は新規に制作しているが、和字書体は活字の原字として提供していない。
 もし「石井宋朝体」の方体が制作されていたら、どのような書体になっていただろうか。今となってはかなわぬ夢である。

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「石井中教科書体(旧教科書体)」は、文部省活字を模して1938年(昭和13年)に制作されていた。東京書籍に勤務する石井秀之助(石井茂吉の末弟)のアドバイスで制作されたという。教科書に採用されることはほとんどなかったが、戦後、当用漢字の制定にあわせて改訂し、さらに和字書体を全面的に書き直した新しい「石井中教科書体」は昭和33年に発売された。

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「石井細教科書体」(当初は小教用筆書体と呼ばれていた)は、昭和34年度教科書に採用された。活字パターンを写真植字機研究所で作製し、千代田母型のベントン彫刻機で母型を製作、凸版印刷で活字鋳造をしたそうである。同時に写植文字盤も制作されたが3年間は東京書籍の専用となり、一般販売されたのは1960年(昭和35年)になってからである。
「石井教科書体」は教科書に使われるために制作したので「教科書体」となっているが、その書風は中国・清代の官刻本の字様に近い。使用目的とは別に、書風として「清朝体」に分類していいのではないかと思う。

 このふたつの漢字書体は、客観的にみれば復刻といえるのかもしれない。しかし決して敷き写しということではなく、新たな命を吹き込むということである。「石井宋朝体」は高い品位のある優美な書体として再生しようという意図があった。「石井細教科書体」もまた、文部省活字よりも洗練されているように感じる。
 写植書体を代表する石井書体であるが、金属活字にもなっていたのである。残念ながら津田三省堂に「石井宋朝体」の和字書体を提供しなかったので、「長体宋朝」活字は別の書体のように思える。東京書籍の「小教用筆書体」活字も短期間の使用にとどまり、しだいに写植文字盤に移行していった。
 だが、石井茂吉は金属活字にもたしかな足跡を残しているのである。
posted by 今田欣一 at 21:16| 探訪◇石井茂吉に学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする