2014年07月16日

[見聞録]第1回 本蘭明朝Lの変遷

1975年。写研は創業50年周年を迎えた。「写植のうた」がつくられ、記念誌などが発行された。そして、その後の写研を担うことになるふたつの書体が発表された。ひとつはゴナU、もうひとつは「本蘭細明朝体」である。
「本蘭細明朝体」は、橋本和夫さんを中心に制作された。橋本さんは私が師と仰ぐ方で、写研のほとんどすべての書体の監修をされていた。「本蘭細明朝体」はその後のファミリー化によって、「本蘭明朝L」と呼ばれるようになった。
 私が入社したのは1977年なので、すでに本蘭細明朝体(本蘭明朝L)は発売されていた。新入社員の研修では石井細明朝体を実習したが、本蘭細明朝体(本蘭明朝L)も、石井細明朝体と比較しながら、その書体の背景、特徴などを教えられた。
 石井細明朝体と本蘭細明朝体(本蘭明朝L)との比較によって、近代明朝体を基本的な考え方を理解していったように思う。

●サプトンのために
本蘭細明朝体(本蘭明朝L)の開発に着手したのには、第2世代機といわれるサプトンへの移行があったという。当初は岩田細明朝体を搭載していたが、やはり写研独自の書体が欲しかったようである。1970年代前半のことである。

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●サプトン用の文字円盤(コピー)

 のちに第1世代機といわれる手動写植機は、広告での使用を中心に普及していた。石井細明朝はグラフィック雑誌や、広告のコピーなどに多く使用されていたが、電算写植機の普及のためには、書籍や文庫などの本文用の明朝体を開発する必要性があった。
 石井細明朝は優雅でしなやかな書体として完成度が高いとの評価を受けていたが、本文用の小さい級数では品質が不安定になるなどの問題があった。つまり、横線や細いはね先の部分が飛び気味になるといった再現性の問題や、画線の交差する部分などに濃度ムラなどが起こるということである。
 本蘭細明朝体(本蘭明朝L)では、電算写植機サプトンの弱点をカバーするために、横線を太くし、先端をカットし、交差部分には大きな食い込み処理が入れられた。これには書体設計者としては、大きな葛藤があったに違いない。

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●本蘭細明朝体(横線を太くし、先端をカットし、交差部分には食い込みが入れられた)

 しかしながらサプトンの文字円盤で再現することも考慮すると、横線やはね先の細い線を太くせざるを得なかったのだ。活字書体設計で重要なのは書体の再現を保証することであり、そのためにハードやソフトを無視することはできないというのが写研の考え方であった。
 そうした考えから、ハードやソフトによって起こる弱点を原字で吸収しようと工夫し、いままでに経験したことのない制約を克服しながら、試行錯誤して開発したのが本蘭細明朝体(本蘭明朝L)だといえる。そこに原字制作の苦心があったという。
 なお、本蘭細明朝(本蘭明朝L)の手動機の文字盤も同一性を保つためサプトンの文字円盤と同じ原字を用いたようだ。

●サプトロン・ジミィのために
第3世代機サプトロンをはさんで、第4世代機サプトロン・ジミィが開発され、アウトライン・フォント(C−フォント)化されるときに、食い込み処理がはっきり見えてしまうということから、食い込み処理は手作業で埋めた。ハライの先端のカット処理は、同一性を保つという観点から、そのままにした。

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●C−フォント

 本蘭細明朝(本蘭明朝L)は、機種によって原字のデザインが変遷してきた。このような経緯から、写研はハード、ソフト、文字の三位一体という立場をとった。埼玉工場の中に、それらに関わるすべての部門を置いていたことも、それを示している。
 その立場にとらわれるあまりに、時代への対応ができなかったいうことなのだろう。
posted by 今田欣一 at 12:58| 活字書体の履歴書・第2章(1984–1993) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする