就職活動にみんなで上京したが不調に終わったあとのことだった。その報告に清水国夫教授(現在岡山大学名誉教授)の研究室に行ったら、一通の求人票があった。職種=タイプフェイス・デザイン。締め切りは次の日だった。願書を航空便で送付するため、友達の車で福岡空港へ急いだ。
試験日から10日後、採用通知が届いた。
1976年の春から卒業研究の準備にはいった。ぼくのテーマは、文字以外には考えられなかった。このときにはタイプフェイス・デザインということはまったく考えてはいなかった。いろいろな方面から資料を集め、自分なりのテーマに集約していった。
文章は写真植字で組んだ。大学の写真植字機はモリサワ製だったので、写研の書体が使える福岡写植というところに印字を依頼した。石井細明朝体+タイポス35で組みたかったのである。パネルに貼ることを考えていたので、金属活字版より都合がよかったのである。
これが写真植字との本格的な出会いである。
●卒業研究のための写真植字
●写真植字の領収書
卒業研究作品展は、1977年2月15日から20日まで、雪の中、福岡県文化会館で開催された。ぼくは、卒展学生委員長をやらされてしまったので、毎日出掛けた。ポスターと、カタログのデザインもぼくが担当することができたのはよかったとおもう。
●卒業研究作品集
清水教授の推薦により、ぼくの作品は12枚すべてが展示された。そして、それは福岡の新聞にも取り上げられた。デザイン誌『アイデア』、さらには『日本タイポグラフィ年鑑』にも掲載された。また卒業式では、学長賞(学術優秀賞)を戴くことができた。
●卒業研究「日本語文字の研究」
1977年3月の終わり、こんどは実家から「ひかり」で東京に向かった。ぼくが新入社員として、株式会社写研に就職したのは1977年4月1日のことだった。
同じ日に山口百恵のうたう「夢先案内人」(阿木耀子作詞 宇崎竜童作曲)が発売された。ピンク・レディ「カルメン77」、キャンディーズ「やさしい悪魔」、西城秀樹「ブーメラン・ストリート」などがヒット・チャートをにぎわしていた。
4月11日、「夢先案内人」がヒット・チャート第6位に初登場。第1位はピンク・レディの「カルメン77」だった。ぼくは一週間の新入社員教育期間を終えて、この日から職場に配属された。同じ職場には、ぼくを含めて3人が配属になった。ここでもすぐに仕事につくのではなく、約3ヶ月間にわたって研修をうけることになるのだ。