実際のアルバイトとして作業したのは、こまごまとした雑用ばかりだった。大西社長にくっついて、「これやって!」「終わったら、つぎこれね!」の繰り返しだったので、どのようなことがあったのかははっきり覚えていない。
●大西商店印刷部(撮影:2011年)
1976年当時とは大きく変わっている。
1976年の春休みには、『備前焼の鑑賞』(日幡光顕著、備前焼鑑賞会、1976年)の製作を手伝った。といっても、丁合とか(手作業だった)、封筒に入れる作業とか、簡単なことだけだったが、今もまるで自分の担当した書物のように愛おしく思えるのである。
●『備前焼の鑑賞』
とくに印象に残っているのは、活字を鍋で煮て、活字合金の延べ棒をつくるという作業であった。まさに活字は生きていると思った。一歩間違えば大やけどをするかもしれないので、緊張しながら作業していたのを思い出す。
印刷会社なので、活字をつくる工程までは体験できなかったけど、この「活字鍋」の体験が、金属活字への興味をますます高めたのである。『書体デザイン』(桑山弥三郎著、グラフィック社、1972年)には、株式会社モトヤでの活字製造工程が書かれていた。
●『書体デザイン』
その株式会社モトヤも、1996年7月31日をもって、創業以来75年間にわたって製造してきた金属活字から撤退している。なお、株式会社モトヤ大阪本社2階において、「活字資料館」として、金属活字の製造や組版作業の過程を常設展示している。
のちにぼくが強く影響を受けることになる橋本和夫氏は、若い頃に金属活字での活字書体設計を経験されている。『文字の巨人』のインタビュー(字游工房ウェブサイト)で、つぎのように述べている。
「モトヤで僕がラッキーだったと思うのは、文字デザインの作業をしながら、写真製版の作業も担当したことですね。母型作製のベントン彫刻機では、原字を書いて、それを亜鉛板の凹版にして、その凹版をもとに文字を探って、縮小された文字が彫刻されます。こうしてできたものが母型です(母型は活字鋳造の親になる)。この凹版を作製するのが、写真製版の技術です。
つまり、紙に書いたものを写真に撮って、それを亜鉛板に焼き付けて、腐食をし凹字にして、そしてベントンで彫刻するというプロセスです。パターンと呼んでいましたが、原字作業をやりながら、僕はその写真製版も担当していたんです。
写真製版をやるとね、原字のこういうところはもっと太めておかないとダメだとか、こういうところは細めておかないと写真製版で太まってしまうとかいうことが、よくわかってくるんです。要するに、原字をデザインするノウハウというか、文字の仕様に掲げられていない、ひとつの製品になるための工程上の許容誤差など、それらを学びましたね。活字は原字をそのまま再現することが前提だけれども、製造工程上、どうしても忠実に再現できない部分が現実にはあり、実際に活字になるまでのことを考えながら、文字はデザインしなくてはならないことを、僕はそこで習ったような気がします。原字をデザインするということは、周辺技術の認識も必要とされる大変な作業なのだとも再認識しましたね」
第2回「七味展」は、10月18日から23日まで、福岡・新出光サロンで催された。このときぼくは不本意な作品を出品した。このときは考えもしなかったが、「鋳造活字」での印刷物という手もあったなと、40年近く経って思っている。
●第2回「七味展」
12月には、九州産業大学の近くにあった喫茶店「貘」のオーナーが、親不孝通りに「屋根裏貘」を開店した。併設の「アートスペース貘」は、5.5坪の小さなギャラリーだが、全面が真っ白で、毎年、年末になると壁を白に塗り新しい年を迎えるという。芸術学部の教員、OBはもちろん、学生にとっても発表の場となっていった。
●「屋根裏貘」(撮影:1995年)
いつの日にか「貘1973」の和字書体1フォントを鋳造活字で製作したいとも考えている。