●平和台野球場(撮影:1995年)
3月10日に国鉄の山陽新幹線で岡山・博多間が開業した。ぼくは2年間過ごした玄海町(現在の宗像市)の学生寮を出て、福岡市東区のまかないつき下宿屋に引っ越した。テレビは持っていなかった。ラジオでは地元のラジオ局が太平洋クラブ戦を中継していた。このころから、ぼくは太平洋クラブ・ライオンズのファンになった。
開幕戦はエース東尾修の力投と、基満男のサヨナラ二塁打で太平洋クラブが4対3で勝った。第2戦は加藤初をたてて、10対1での大勝。なんだかおもしろくなりそうな予感がした。
●印刷実習の風景(撮影:1974年)
ぼくのクラスの写真がないので、1学年上の方の写真を提供していただいた。
「印刷実習」であこがれの金属活字との対面が実現した。名刺制作である。2号明朝体活字と5号明朝体活字しかなかったが、名前と住所と電話番号ぐらいの文選と植字をするのに、かなりの時間をついやした。それだけのことだが面白かった。
手動写真植字機も大学に2台設置されていた。機種は忘れたが株式会社モリサワ製だった。写植の実習はなく、ぼくはさわったことがあるといった程度の記憶しかない。平版印刷の実習やスクリーン印刷の実習もあった。それらはあまり覚えていない。
つまり、大学での授業で「文字を組む」という経験をしたのは、「金属活字」だったのである。
●活字版による、はじめての名刺
ラジオからは、西郷輝彦のうたう「君こそライオンズ」(作詞:黒瀬泰宏・本間繁義、作曲:中村八大)が毎日のように流れてきた。球団と放送局が選定した球団歌だ。
この年のライオンズ打線は「どんたく打線」とよばれた。近鉄から土井正博、日本ハムから白仁天をトレードで獲得するなど、積極的な戦力補強に取り組んだのだ。投手陣も東尾修と加藤初の両エースを中心にそろっていた。「博多どんたく」は5月3日と4日に行われる大イベントである。
1番サードはビュフォード、2番セカンドは基満男、3番ライトはアルー、4番レフトは土井正博、5番センターは白仁天、6番DHは江藤慎一、7番ファーストは竹之内雅史、8番キャッチャーは楠城徹、9番ショートは梅田邦三。これがスターティング・オーダーだ。
ビュフォードは大リーグでも俊足好打でならしたバッター。アルーはドミニカ共和国出身で、大リーグでは首位打者をとっている。白仁天は韓国生まれ。死球王とよばれた竹之内、東京六大学で活躍した楠城。個性的なメンバーはかつての西鉄ライオンズを彷彿させた。
「タイポグラフィ演習」では、スペーシングが中心だった。
欧文では、インスタント・レタリング(通称インレタ)を使ってのスペーシングだった。インレタというのは、文字が印刷された転写フィルムである。転写したい文字を先端が球形になった用具で擦って転写する。
和文のインレタは少なかったので、コピーを切り抜いて、ペーパー・セメントで切り貼りしていた。このころコピー機が一般的になり、大学の前にあったチトセヤ画材がコピー機を入れたのでよく利用していたものだ。
パ・リーグは1973年から前期と後期にわけて、前期優勝チームと後期優勝チームが日本シリーズ出場をかけてプレイ・オフをおこなっていた。前期は阪急ブレーブスに優勝をさらわれたものの、太平洋クラブ・ライオンズは2位に入った。
太平洋クラブ・ライオンズのユニフォームは派手だった。それまではホーム用のユニフォームは白、ビジター用はグレーというのが慣例であった。太平洋クラブはそれをくつがえした。ビジター用の赤と青の原色をふんだんに使ったユニフォームで、大きな話題を呼んだものだった。
この年、セ・リーグでは「赤へル軍団」こと広島カープが旋風を巻き起こしていた。その後の各球団のビジター用ユニフォームのカラー化の先鞭をつけたのは太平洋クラブ・ライオンズだったのである。
10月10日にペナント・レースは終わった。後期は4位におわったが通算で3位にはいり、初のAクラス入りとなった。投げてはエース東尾が23勝を挙げて初の最多勝利投手となり、打つ方も土井が34ホーマーで初の本塁打王に輝き、白も打率3割1分9厘で首位打者を獲得した。
ぼくたちはこの年から「七味」という名のグループ活動をはじめていた。自主勉強会と、年1回のグループ展が活動の中心だった。自主勉強会は、毎週1回メンバーのアパートを巡回し、各自の研究テーマを発表するという方法で進められた。それぞれの個性を大切にしようということで、「七味」と名付けられた。
ぼくのテーマは、文字の歴史、生活と文字、活字書体の設計といった内容だった。ぼくひとりが日本語の文字について勉強していたのだ。「七味」の自主勉強会におけるぼくのおもなテーマはきわめて地味だった。
第1回『七味展』は、1975年10月13日から18日まで、福岡・新出光サロンで催された。このときのぼくには、活字書体設計をするという発想がなかった。
太平洋クラブ・ライオンズは、さらにチームを飛躍させるべくシーズン終了後に江藤監督を解任し、大リーグの超大物監督であるレオ・ドローチャー氏を監督に招聘した。1974年には大リーグの本塁打王であるフランク・ハワード選手を鳴り物入りで迎えたものの、左ヒザの故障のために開幕戦の1試合2打席だけで帰国したというにがい記憶がある。にもかかわらず、またも大物招聘にうごいたのだ。
案の上、である。翌年の開幕直前に健康上の理由により契約を破棄、一度も来日することなくドローチャー監督は幻に終わったのだ。
「どんたく打線」といわれるほど豪快だった太平洋クラブライオンズ。その夢も1年で終わった。ドローチャー監督が幻となったため鬼頭政一ヘッドコーチを監督に昇格させ、ゴタゴタが続いた気分を一新するためにユニフォームもワインカラーを主体としたものになった。胸マークの代わりに背番号を胸に大きくつけたアメフト・スタイルはいかにも奇抜だった。
しかしながら加藤初を読売ジャイアンツに放出したツケが大きく響いたのか、ルーキー古賀正明の台頭にもかかわらず4年ぶりの最下位に沈んだ。そんな中で吉岡悟が首位打者になり、大田卓司も大活躍して最優秀指名打者に選ばれた。3年目の鈴木治彦も、規定打席不足ながら吉岡を上回る高打率を記録している。
太平洋クラブライオンズの経営状態は苦しく厳しいものだったが、1974年には若手選手をアメリカに野球留学させるなど、チームの将来を視野に入れることも忘れてはなかった。そのメンバーには、のちに主力選手となる真弓明信、若菜嘉晴も含まれていた。
鋳造活字製造の工程を要約してみると、
@原字制作 2インチ角(紙 正向き)
Aパターン原図(亜鉛凹版 正向き)
B活字彫刻母型製造(指定ポイント 正向き)
C活字鋳造(指定ポイント 裏向き)
このうちAからCは専門的な機械と技術が必要である。当面は「@原字制作 2インチ角(紙 正向き)」の工程を、「貘1973」で追試してみることにした。
まず、方眼紙に鉛筆で下書きをする。インチ・ピッチの方眼紙が手元になかったので、1ミリメートル・ピッチの方眼紙を使い、近似値の5センチ・メートルをボディ・サイズとした。ノートにスケッチした和字書体を見ながら、アウトラインで描いていった。
●「貘1973」の下書き(金属活字用)
ある書物に「以前はトレシング・ペーパーに描いた」と書いてあったので、トレシング・ペーパーで再現してみようと思った。下書きの方眼紙の上に、トレシング・ペーパーを置いて、墨入れしていった。修整しないというつもりで墨入れしたので緊張した。それでもはみ出してしまったので、そこだけ削り取った。
●「貘1973」の原字シート(金属活字用)
ぼくの大学生活4年間は太平洋クラブライオンズの4年間とかさなる。ライオンズは親会社がある他チームとは違って、中村長芳オーナー個人が所有する「福岡野球株式会社」として運営されていたが、そのスポンサーが太平洋クラブからクラウンライターに変わった。いわゆる命名権を売却していたのである。
1977年3月にぼくは大学を卒業し、4月からは埼玉県和光市のアパートに住むようになった。首都圏ではラジオでも中継はなかったが、それでもひきつづいてクラウンライター・ライオンズを応援し続けていた。1978年には根本陸夫が監督に就任し、若手の真弓明信、若菜嘉晴、立花義家らを積極的に起用していた。
1978年のシーズン・オフに国土計画に売却され、西武ライオンズとなった。本拠地も所沢市に移ったので、ときどきは西武球場に足を運ぶようになった。福岡では現在は「福岡ソフトバンクホークス」が人気である。しかしながらぼくはあいかわらず埼玉西武ライオンズに太平洋クラブ・ライオンズの夢を追い求めている。