大学の最寄り駅は、香椎駅か西鉄香椎駅であった。このふたつの香椎駅は松本清張の『点と線』でトリックとして使われている。大学から香椎駅前まで行くには歩いて20分ぐらいかかった。大学のちかくに「九産大前駅」ができたのは、ぼくが卒業してからのことだ。
まだ「宗像寮」にいたぼくは、スクールバスのない休みの日には、神湊から路線バスで津屋崎駅に行き西鉄宮地岳線に乗って、西鉄香椎駅から大学に向かった。天神や博多駅に行くにも、西鉄香椎駅から貝塚駅で市電に乗り換えるのが一番便利であった。地下鉄はまだなかった。
1973年12月にオープンした香椎アピロスは、ユニードのショッピングセンター第1号店である。対向車線側のビルには、積文館書店が開店した。講義のない時間には、香椎アピロスと積文館書店で暇をつぶしていたものだ。
●西鉄香椎駅(撮影:1995年)
2006年に路線変更と高架化があり、西鉄香椎駅は建て替えられてすっかりきれいになっているそうだ。
大学2年のとき、必須科目として「デザイン基礎演習」というのがあった。その内容は「レタリング」だった。担当は河地知木さん(当時は講師。現在は教授で、元芸術学部長)。河地さんが用意したコピーを真似てケント紙の上に再現するというものだった。
10年後の1984年に1冊の書物が刊行された。『文字の歴史とデザイン』(白石和也・工藤剛・河地知木共著、九州大学出版会、1984年)である。この実技に関するページは、「デザイン基礎演習」での演習内容をまとめたもののようだった。
●『文字の歴史とデザイン』
ぼくは、成績が悪かったとはいえ、中学生のときに通信教育で「レタリング」は経験している。演習の内容に新鮮みはなく、物足りなく感じていた。クラスの中では間違いなくぼくがいちばん上手だったので、好成績で1単位もらえるのは確実だと思うだけだった。
もっとも大きな収穫は、河地さんの雑談の中にあった。この年に募集された「第3回石井賞創作タイプフェイスコンテスト」(1974年)で、大学の先輩にあたる菅昌克さんが第3位に入賞したという情報がもたらされたのだ。はじめて写真植字というものを知り、写研というメーカーのことを知った瞬間だった。「文字のデザイン」に興味をもちはじめたのも、これがきっかけだったように思う。
このとき、「自画像」のタイトルのレタリングから本文の活字書体へと、ぼくの興味がおおきく転換した。書体デザインというジャンルがあることを認識した。「デザイン基礎演習」だけではなく「タイプフェイス・デザイン」という課目があったら、まよわず履修していただろう。
もし、「タイプフェイス・デザイン」という課目があったらという想定で、新しい書体を制作してみることにした。写植というものを知ったばかりで、まだピンと来ていなかった時期なので、「金属活字としての書体制作」を念頭におくことにした。これを大学の前にあった喫茶店「貘」にちなんで、「貘1973」と呼ぶことにした。
●「貘」の漢字書体スケッチ
漢字書体は、「自画像」のレタリングをベースにして再生してみることにした。まだ写真植字の原字制作のノウハウを知らないころなので、『書体の歴史とデザイン』の漢字書体(ゴシック体)のフリーハンド・レタリングを参考にして下書きをはじめた。あくまで大学2年生の自分が作っているという想定である。
●「貘」の欧字書体スケッチ
欧字書体は、『自画像1973年秋号』表紙の「OWN」というレタリングをベースに、『書体の歴史とデザイン』の欧字書体(サンセリフ体)のフリーハンド・レタリングを参考にした。とりあえずは文字だけを制作した。スペーシングを習うのは、3年になってからの「タイポグラフィ」という講義を待たねばならない。
●「貘」の和字書体スケッチ
『自画像1973年秋号』表紙に和字書体はなかった。さいわい目次のページに「いたずらがき」や「わるふざけ」、「阪神ファン」といったタイトル(謄写版印刷によるレタリング)があったので、それをベースに、『書体の歴史とデザイン』の和字書体のフリーハンド・レタリングを参考にした。
1974年12月8日、アメリカのフランク・ショーターが香椎アピロスと積文館書店の間を駆け抜けていった。この年から名称が変更になった「第28回福岡国際マラソン選手権」で4連覇を成し遂げたのだ。今は香椎折り返しになっているが、当時は雁ノ巣折り返しだったので、大学の横も通っていったのである。
西鉄宮地岳線は、2007年4月に、津屋崎駅から西鉄新宮駅までの区間が廃止され、西鉄貝塚線となった。香椎アピロスも、ダイエー香椎駅前店になったのち、1999年に閉店した。積文館書店も香椎から撤退している。思い出のスポットがどんどん無くなっている。