そのころの天神といえば、音楽喫茶「照和」が知られていた。「昭和の世の中を明るく照らしたい」というオーナーの願いで名付けられたそうだ。当時は「妙安寺ファミリーバンド」などがメインだった。すでにチューリップ、海援隊が巣立ったあとで、翌年には甲斐バンドもプロ・デビューする。

●音楽喫茶「照和」(撮影:1995年)
※音楽喫茶「照和」は1978年に一時閉鎖したが、1991年4月に復活している。
まだ「照和」ができる前のことだが、RKBの「スマッシュ!!11」では視聴者が作った音楽を流すコーナーで井上陽水が持ち込んだ「カンドレ・マンドレ」が放送され、デビューのきっかけとなったという。「照和」に出演していたバンドは、ほとんどがKBCの「歌え!若者」という公開録音番組にも出ていた。寮生活ではいつもラジオをよく聞いていた。
前年に「魔法の黄色い靴」でデビューしていたチューリップは、財津和夫の作詞作曲による「心の旅」が4月に発売され、メインボーカル姫野達也のあまい歌声で徐々に人気が出始めていた。井上陽水はすでに「夢の中へ」をはじめヒット曲を連発していた。
高校時代につくっていたミニコミ・サークルは、ぼくが福岡県に住むようになり、メンバーもそれぞれ香川、京都に住んだので、郵便によって連絡を取り合って活動を続けていた。同人雑誌は『自画像』と名を改め、自分たちの原稿を中心に構成するようになった。
『自画像1973年夏号』(1973年6月発行)が創刊号なのであるが、いまは残っていない。18ページという薄っぺらなもので、表紙、本文ともに謄写版印刷であった。したがって「自画像」というタイトルも鉄筆とヤスリによるレタリングだった。
ミニコミ誌がブームになっていた。『自画像1973年秋号』(1973年9月発行)では、そういったものに少なからず影響を受けた。本文は謄写版印刷だが、表紙だけはオフセット印刷にした。タイトルは『自画像1973年夏号』の謄写版で描いたレタリングをもとにした。表紙の写真は宗像寮のあった神湊の砂浜で撮影したものである。大きなラジカセが時代を感じさせる。

● 『自画像1973年秋号』表紙

● 『自画像1973年秋号』本文
「香椎祭」(大学祭)のゲストはデビュー間もない海援隊だった。昼休みになると、学内にデビュー曲の「恋挽歌」が流されていた。「さの恋挽歌〜」というフレーズが耳に残った。サックスのイントロは、どうしても演歌にしか聞えなかった。
芸術学部の前の駐車場に特設ステージが組まれた。当時から武田鉄矢のトークは軽妙だった。「母に捧げるバラード」や「おかしな野郎」を初めて聞いた。とくに「母に捧げるバラード」は、友人たちの間でも評判になっていた。この年の年末にシングルとして発売されて、翌年大ヒット曲となった。
『自画像1973年冬号』(1973年12月発行)は、高校の学校祭のパンフレットを作成した経験から、タイプ孔版でやるようになった。その印刷も高校の前にある旭東印刷というところに頼むようになった。タイプ孔版というのは、手書きの変わりに和文タイプライターを使って打ち込むのである。

●『自画像1973年冬号』本文
この頃から、東京・新宿の模索舎などミニコミ誌専門の書店で『自画像』を販売してもらった。これは全く売れず失敗に終わったが、自費出版の最初の経験になった。そうして、活字への憧れは大きく膨らんでいったのである。
販売するからにはせめてタイプオフセット印刷にすればという旭東印刷のすすめがあったので、つぎの『自画像1974年春号』はタイプオフセット印刷を考えていたが、メンバーがバラバラであることや資金難もあって発行できなかった。こうしてぼくたちのミニコミ・サークルは三年間続いて解散した。

●岡山・和気 旭東印刷(撮影:2011年)
このとき「自画像」のレタリングを書き直したが、それは日の目を見なかった。今は何も残っていない。40年ぶりに、記憶だけをたよりに再現してみた。レタリングの用具も、当時使っていたものに近いものを揃えた。久しぶりの制作で思い通りにはならなかった。視力が衰えてしまったことを実感したのであった。

●「自画像」のレタリング(再現)
※これが「貘1973」の原点である。「貘」は大学の近くにあった喫茶店の名前から。
………
〔追記〕1
ミニコミサークルOWNの『OWN会員手帳』はタイプオフセット印刷によるものだった。

●『OWN会員手帳』(1971年発行)