
●平成丸ゴシック体W4(和字)
1988年9月に、旧通産省工業技術院電気・情報規格課の主導により、文字フォント開発・普及センターが設立された。それまではコンピュータ関連の機器メーカーなどは高品位の原字が欲しくても容易に入手できないという状況だったのだ。
大手コンピュータ・メーカー、大手電子機器メーカー、大手印刷企業、写植機メーカーなど25社による発起人会が開かれ、財団法人日本規格協会に属す運営委員会が設立された。運営委員会のもとにフォント開発・普及のために開発会員51社が参加し、開発委員会が発足した。
1989年にスタートした第1期フォント開発事業は、「明朝体」と「ゴシック体」の開発が計画された。そこで明朝体とゴシック体それぞれのコンペティションを行うことになり、フォントメーカーを広く公募することになった。
第1次の明朝体コンペティションは、リョービイマジクスの応募した新しい明朝体が最多得票を得て採用となり、「平成明朝体」と名づけられた。ゴシック体コンペティションでは、同じように日本タイプライタが応募した新しいゴシック体が最多得票を得て採用となり、「平成ゴシック体W5」と名づけられた。
この「平成ゴシック体W5」は、「平成明朝体W3」に整合性のあるゴシック体というのが応募のときの条件であった。すなわち、「平成明朝体W3」はリョービイマジクスが、「平成ゴシック体W5」は日本タイプライタが制作したのであるが、グランド・ファミリーのような位置づけであった。
「文字フォント開発・普及センター」の第2期開発フォントとして、「平成丸ゴシック体」が計画された。その制作が株式会社写研に委託されたのである。このことについて、元リョービイマジクス情報システム部長の澤田善彦氏は、『平成フォント誕生物語─フォント千夜一夜物語(15)』のなかで、つぎのように述べている。
第1期開発の「平成明朝体」と「平成角ゴシック体」は、デザイン・コンペにより開発委託先が決定されたが、何故か「平成丸ゴシック体」についてはコンペなしで決められた。フォントセンター側では、フォント開発に経験豊富な且ハ研を委託先と選び交渉したようである。その選択に、何か不純なものを感じた開発委員は少なくなかったようである。
そのいきさつについて、私は聞いていない。
1991年、橋本和夫氏を中心として、「平成丸ゴシック体W4」の開発がスタートとした。平成明朝体W3、平成ゴシック体W5との整合性は求められなかった。まず、社内において何点か試作し、開発委員会で検討された。私が試作したものは、より丸みを帯びて抱懐を締めた書体だったので採用されなかった。
開発委員会では、人気の高かった写研の「ナール」のような書体を希望する委員が多かったようだ。写研としては「ナール」と同じような書体を出すわけにはいかなかった。このころ「本蘭ゴシック」が橋本氏によって提案されており(本蘭ゴシック・ファミリーは2000年に発売されるが、橋本氏は関係していない)、それとの差異をどうするかが検討されたと記憶している。
「平成丸ゴシック体W4」の漢字書体は、橋本氏の指揮の下で数名のスタッフが制作にあたった。私は「平成丸ゴシック体W4」に関係することはないと思っていたのだが、橋本氏から和字書体を設計するように指示があった。欧字書体は半田哲也氏が担当した。
和字書体は、「平成丸ゴシック体W4」全体のプロデューサーである橋本氏にチェックしてもらいながらではあったが、私が新しく制作した。当時はまだフィルム原字であった。橋本氏の的確な指摘と納得のできる説明により、なんとか完成することができた。
後日、文字フォント開発・普及センターの主催で、橋本氏による「平成丸ゴシック体W4」のレクチャーが開催された。直接いろいろと話を聞いている我々制作者でも新鮮でわかりやすい内容で、参加者にも好評だったようである。


●平成丸ゴシック体W4 組み見本(アドビシステムズ)
平成丸ゴシック体W4は写研からは発売されていないが、数社から発売されている。ただ商品化の方法が異なっているので、それぞれの会社でデザインに違いがあるようである。とくに和字書体には注意しなければならないと思う。