
●ゴカールE 写真植字機用文字盤
株式会社写研では、1年おきに「写研フェア」というイベントを開催し、そこで新しい機種や書体を発表するのが恒例となっていた。1983年にはゴナ・ファミリーやボカッシイなどが発表されたが、1985年は創業60周年にあたるということで、例年よりさらに多くの新書体を発表することが期待されていた。本蘭明朝ファミリー、紅蘭楷書ファミリーをはじめ、数多くの新書体の発表が計画されていたが、まだまだ足りないといわれた。
そこで私に白羽の矢が立った。「何か考えろ」という漠然とした指示である。何か…というのがいちばん困る。いろいろ描いてみるもののピンとこない。行き詰まっていた。ふと、ある女子社員が書いたレポートが目に留まった。これをもとにしたら面白いかもしれないと思った。
当時の若い女性の手書き文字「マル字」がブームになり、写研で「ルリール」が発売されたのは1986年である。さらに同年「第1回マル字50音コンテスト」を実施し、第1位となった「イクール」が発売された。1987年に2位の「エツール」と3位の「ヨシール」、「第2回マル字50音コンテスト」第1位の「ノリール」が発売された。私はそれよりも前に、若い女性の手書き文字に注目していたということである。
一方、1984年1月30日−2月4日に、銀座のギャラリー・オカベで開催された「タイポパワーズ1984展」で発表された佐藤豊氏の「タイプラボ・ゴシック」と鴨野実氏の「ロゴライン」は、いずれも写研のゴナ・ファミリーとの混植を前提としたものであった。それぞれ写研での販売が提案されたそうだが、その後のいきさつについては知らない。いずれにせよ、「タイプラボ・ゴシック」と「ロゴライン」をきっかけにして、ゴナ・ファミリーと混植する和字書体が広く求められるようになっていた。
そこで私は、ゴナEと混植する独立系の和字書体として試作することにした。その女子社員の承諾を得て、レポートからひらがなとカタカナを抜き出し、ゴナEにあわせながら、和字書体すべての字種を試作した。テスト文字盤を作成してもらい、社内の企画会議に提出された。
もともとのきっかけは若い女性の手書き文字であり、実際にはゴナEと混植することによってバリエーションを広げるための書体であった。「POP書体」とされることがあるが、制作時においては「POP書体」を意識したということはなかった。
この書体は企画会議において、商品化が決定された。しかしながら、ある社内事情によって、私の手でまとめることができなかった。最終的な書体制作は、別の社員にゆだねざるを得なかったのは残念なことであった。そうして完成した書体が一部の字種をのぞいて全体的には私が試作したままのイメージだったのが救いであった。
この書体は「ゴカールE」と名付けられた。さらに、その社員によって「ゴカールU」が制作された。まずは、ゴナ・ファミリーで先行して発売されていたゴナEとゴナUに対応しておこうということだったと思う。

ゴナ・ファミリーが広く使用されるようになり、さらにゴナHが発売されて全ウエイトがそろったことから、つぎの1987年の「写研フェア」では、ゴカール・ファミリーを発表しようということになった。ある社内事情によって、この作業も別の社員に任せることになった。当時はまだまだフィルム原字での作業が中心であった。ゴカールEもゴカールUもフィルム原字で制作されていた。つぎに制作されることになったゴカールLもフィルム原字で制作された。
写研ではイカルス・システムの導入により、ファミリー化が促進されるようになっていた。その第1弾がゴナ・ファミリーであり、第2弾が本蘭明朝ファミリーであった。そしてゴカール・ファミリーもイカルス・システムをもちいてファミリー化をはかることになった。
ゴカールL、E、Uの3書体は、すべてのキャラクターが大きく拡大化され、青焼きがとられた。青焼き上に手作業でポイントをマーキングしていくのである。そのマーキングしたポイントをデジタイザーというツールで記憶させることによりデジタル化された。私もこの作業をさせてもらったことがあるが、今考えると、デジタル化といいながらも、まことにアナログ的であった。
デジタル化されると、ゴカールEとゴカールLの補間でゴカールM、D、DB、Bを、ゴカールEとゴカールUの補間でゴカールHを作成し、この5書体がフィルムで出力されたのである。まだワークステーションで直接修整するという方法はとられていなかった。イカルス・システムは補助的に使われていたのである。ワークステーション自体がそれほど多くなく、担当部署以外は触れることができなかった時代だった。
フィルムで出力された5書体は、その社員によって、フィルム原字として完成された。フィルム原字から文字盤が作られ、フィルム原字をスキャンしてデジタル・フォントが作られた。イカルスのデータは中間的なものでしかなかった。当時としてはそれが最良の方法だったのである。
それから数年後、私はゴカール・ファミリーの総合書体化を企画した。まず、ゴカールEの書体見本の12文字と、簡単な仕様書を作成したと記憶している。ユーザーから要望があったわけではなく、ある社内事情によるものである。この提案も採用になり、ゴカールEの制作が動き始めた。私が関与したのはここまでである。
私が写研を退社したあとに、総合書体としてのゴカールE、H、Uが発売された。私が実際に関わったのは全体のごく一部なのであるが、総合書体としてもそのきっかけを作ったということで感慨深いことであった。