2013年05月11日

[航海誌]第10回 秀英明朝(漢字)

 株式会社写研では1980年に文字部が発足するとともに開発デザイン係と原字課が分離された。開発デザイン係で設計プロセスを担当し、原字課で制作プロセスを担当するという構想だった。開発デザイン係の最初の書体が「秀英明朝」(文字盤コード:SHM)の設計だった。
 私にとっても、はじめて本格的に取り組んだ漢字書体であった(漢字書体のみ担当)。26歳のときである。直接の上司だった鈴木勉氏は「ゴーシャE」という書体の開発をすることになっていた。そのため私が「秀英明朝」を任されることになり、橋本和夫氏の指示を直接受けることになった。

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●『明朝初號活字見本帳』(株式会社秀英舎 銀座営業所)

 最初に渡されたのは、大日本印刷から提供されたと思われる『明朝初號活字見本帳』の複写物(フィルム)だった。写研では漢字書体の場合、多くは48mmのボディ・サイズで制作していたので、初号のサイズから48mmのボディ・サイズに拡大することから始まった。そのままの拡大率でいいのか検討し、写研の写植機の特性を考慮して、もともとの初号サイズ時の字面に対して、ごくわずかに小さめの字面で設定したと記憶している。
 漢字書体はひとそろいとする字数が多いので、まず「書体見本」字種の12文字を制作して方向性を確立する。この12文字には代表的な部首が含まれること、画数の少ないもの、多いものなど太さや字面の基準となるような字種であった。

   毛 永 辺 紙 東 室 調 囲 激 機 驚 闘

 これを『明朝初號活字見本帳』の中から抜き出そうとしたが、「辺」「囲」「調」「機」「闘」は異なる字体の字種しかなかった。最初から大きな壁が立ちはだかってきた。とりあえずこの5文字をのぞいて、残り7文字を修整することにした。

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●書体見本字種(見本帳より抜き出したもの)

 アウトラインを整えるだけだと思っていたので、それほど難しいことだという認識はなかった。気楽にやってみたのだが、この字種を修整したとき、どこかイメージが違うようだった。横画が右下がりに見えたので水平にしてしまっていたのだった。橋本氏から「横画の収筆を直してしまうと台無しだよ、一点を見ないで全体の姿勢を見ろ」と指摘された。
 当時はフィルム原字の場合は、1mm方眼のスカイブルーのゲージを下から当てて作業していた。すると少しでも水平垂直がきちっと出ていないと、どうしても気になってしまい、まっすぐにしてしまっていたのだ。これは横画だけではなく、豎画にもあてはまることだった。
 線を引いてしまうと、自分の線を作ってしまうことになってしまう。そこでピンホール埋めのような手法を考えだしたのだった。宋朝体や楷書体にくらべれば、制作するのが簡単だと思っていた明朝体でさえ、その造形の奥深さを知ったのが、この「秀英明朝」だった。

 書体見本用漢字の残り5字も、部分的に修整したり、他の字種の部分を合成したりして、なんとか体裁を整えた。つぎに、当時写研では「雛型見本用漢字」と呼ばれていた字種を制作していった。正確な字数を忘れてしまったが、350字ぐらいが定められていた。ここまでが開発デザイン係の「設計プロセス」、これ以降が原字課の「制作プロセス」とされていた。
 従来の制作方法では、書体見本用漢字と雛型見本用漢字を制作したあと、これらの字種をもとに「作字合成法」によって字種を拡張するシステムになっており、これをベースにしたリストが作成されていた。これによって開発デザイン係と原字課の業務をわけようとしていたのであろう。ところが、その第1弾が「秀英明朝」だったというのが失敗だったかもしれない。
 私としては、まず『明朝初號活字見本帳』に掲載された字種の修整を先行し、それをベースにして、残りの字種を制作するという進め方がベターだと思っていた。「雛型見本用漢字」の半分近くは『明朝初號活字見本帳』にはなかったのだ。一方で、開発デザイン係と原字課による制作システムを構築するためには、これから制作することになる書体にも応用できるようにしなければならなかった。そこで「雛型見本用漢字」の制作において、『明朝初號活字見本帳』に掲載されている字種の修整と、それをもとにして字種を制作するというシミュレーションを行なうのだと考えるようにした。
 「雛型見本用漢字」の制作にあたり、当初は『明朝初號活字見本帳』にない字種を『壹號明朝活字見本帳』や『明朝貳號活字摘要録』から採ろうとしたが、やはりイメージが異なっていた。結法の参考程度にとどめることにした。

 書体見本と雛型見本をもって、原字課に制作をゆだねるのであるが、もちろんそれだけではすまない。「設計基準書」の作成である。もともと漢字書体は制作字種が多いので、数人で制作することが多い。お互いの意志の疎通をはかることが必要となってくる。また制作期間が長期におよので、その間に少しずつ感覚が変わらないようにしなければならない。そのための「設計基準書」なのだが、「秀英明朝」の場合、さらに重い役割を担っていた。
 「設計基準書」には、書体見本と雛型見本との制作をつうじて、橋本氏から指摘されたことや、自分で把握したことを細かく盛り込んだ。ピンホール埋めのような手法や、活字書体の設計法としての三要素−−筆法・結法・章法−−についても詳しく記した。細部の設計においては図示して説明し、基本的な要素をしめして、許容できる例(OK)、許容できない例(NG)をそれぞれあげておいた。活字書体としての設計思想の違いによる差異については統一しておくことが望ましいので、「設計基準書」に付属して「統一基準表」を作成した。また、書体見本と雛型見本からではなく、『明朝初號活字見本帳』の字種を先に制作し、それをもとに展開してほしいとの意見をつけておいた。

 もともとの構想では、書体見本、雛型見本および関係書類をもって、私の手から離れるはずであった。だが、そうはいかなかった。原字課にとっては、この新しい制作のシステムに少なからず不満があったようだ。原字課からの要請で制作プロセスにも関わることになり、できあがった原字の監修、テスト印字物のチェックと修整の指示を受け持つことになった。原字課長がいて、制作グループのチーフがいるわけで、私は宙ぶらりんな立場になってしまった。
 原字課での作業において、制作を合理化する手法として採用されていたのが「作字合成法」である。「作字合成法」による書体制作は時間短縮になるばかりか、同じ要素が統一されるというメリットがある。書体見本字種を基に偏や旁の部品をあらかじめ制作しておくことから作業は始まる。これを合理的に制作したものが先にのべた「雛型見本」である。一つの偏でも3種類の幅の字種が選定されているものもあり、「作字リスト」によって的確に組み合わせていく。「秀英明朝」では、『明朝初號活字見本帳』の掲載字種をベースにした特別の「作字リスト」が作成された。
 当時はフィルム原字だったので、ハサミとテープを駆使してバランスを考えながら作っていく。時間短縮になるばかりか、同じ要素が統一されるわけだから、「秀英明朝」のような場合にはとくに威力を発揮した。当然これで完璧にはならないわけで、写真的処理をしてフィルム上でさらに仕上げていくことになる。

 ところで、写研の「秀英明朝」は「石井特太明朝」の影響を受けているのではないかという批評があった。少なくとも「秀英明朝」の制作過程において「石井特太明朝」など他の書体を参考にもしていない。また私自身も制作スタッフも「石井特太明朝」の制作にはまったく関わっていない。
 『明朝初號活字見本帳』に掲載された字種だけをたよりに、それを忠実に再生することだけを念頭において制作した。「秀英明朝」は秀英舎の書体である。それが再生できていないという批評であれば甘んじて受けなければならないが、写研に在籍しているだけで石井茂吉氏の書風に染まっているという指摘は理解できない。私が写研で身につけたのは、書体へ取り組む姿勢なのである。

 同時期に進められていた鈴木勉氏の「ゴーシャE」も同じ制作システムで制作された。こちらは「秀英明朝」のような混乱はなかったものの、最終的には鈴木勉氏によるチェックを経て完成した。 こうして「秀英明朝」と「ゴーシャE」はともに1981年に発売されたが、開発デザイン係で設計プロセスを担当し、原字課で制作プロセスを担当するという構想は失敗に終わったようだ。
posted by 今田欣一 at 17:47| 活字書体の履歴書・第1章(1977–1983) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする