(かな民友明朝の文字盤)
株式会社写研では1980年に文字盤部と文字制作部が合併して文字部が誕生した。あらたに開発デザイン係が発足して鈴木勉氏が係長となった。私はこの開発デザイン係に配属された。このときから鈴木勉氏が退職されるまで、ずっと直属の上司だった。
開発デザイン係の最初の書体が「秀英舎初号明朝体活字」(商品名は秀英明朝)の復刻だった。エディトリアルデザイナー杉浦康平氏の強い希望があり、写研が大日本印刷から写植化する権利を得て実現されたと聞いている。
写研では、漢字書体、和字書体、欧字書体それぞれ異なる工程、担当者ですすめられていた。「秀英舎初号明朝体活字」の漢字書体については、べつの回でくわしく書くことにする。ここでは和字書体についてのみとりあげ、便宜上、「かな秀英明朝」ということにする。
(秀英舎初号明朝体活字)
「かな秀英明朝」の復刻を担当していた鈴木勉氏のことについて、『鈴木勉の本』のなかで鳥海修氏はつぎのようにしるしている。
鈴木勉はこの仮名の制作(復刻)を担当した。初号といえば一辺が約15mmの大きさの清刷である。これを約5cmに拡大して修整するのだが、復刻だから簡単に思えるかもしれないが、実はこれが難しい。清刷というのは紙に印刷されたもので、インクがはみ出したり擦れたりがあり、それにより文字が太くなったり細くなったりするし、細部などは形すら分からないものがあったりする。鈴木は清刷から文字の形を読み取り、筆の動きを把握し、秀英明朝の仮名を自分の中に取り込み、消化しながら制作するのである。
築地書体と並び称された秀英体の見出し書体を復刻しているという充実感と、過去の卓越した職人の技に触れることの喜びを感じつつ、まったく新しいものを制作するほうが楽だな…鈴木はそう思ったかもしれない。後年、鈴木はこの秀英明朝の仮名の制作を通して、仮名が分かったと言った。当人の探求心の賜物であると同時に、上司であった橋本和夫氏のアドバイスも大きいものがあったであろう。「仮名が分かった」と言った鈴木の晴れやかな顔が目に浮かぶような気がする。
これと同時進行ですすんでいたのが民友社活版製造所の「民友社初号明朝体活字」の和字書体、すなわち「かな民友明朝」の復刻である。「かな秀英明朝」を鈴木勉氏が担当されていたので、「かな民友明朝」が私にまわってきた。このとき鈴木勉氏は31歳、私は26歳だった。
(民友社初号明朝体活字)
和字を制作する機会はめったにないことなので胸をときめかせて取りくんだ。じつは和字書体を担当したのはこれが初めてだったのだ。和字書体は限られた熟練者だけが担当していたので、長年活字書体設計の仕事に携わっている人でも和字書体にさわったことすらないのだ。したがって記録がなにも残されていないというのが現状である。
担当者には資料の入手経路などの情報はまったく明かされてはいなかった。渡されたのは初号活字が並んだ印刷物のコピーのフィルムだけだ。それが見本帳からなのかどうかもわからない。とりあえずは、仮想ボディ48mmサイズになるように拡大することからはじめた。
私が入社したとき、すべてのスタッフのライトテーブルの上にはフィルム原字があった。社外のデザイナーは原字用紙を用いていたようだが、社内でまとめるときには写真撮影をしてフィルムにするのが普通だった。
活字清刷は紙に印刷されたもので、それを拡大したものときには、インキがはみだしたり、かすれていたりして、かたちがわからない個所もあった。ただ初号というのは15mm角ぐらいの大きさの活字なのでアウトラインが比較的はっきりとしていた。それほど判断を迷うことはないので、さほど経験のなかった私が担当できたのだと思う。
写真のピンホールを埋めるスポッティングのような手法をとった。ただ自分の線を作らないように心がけた。自分の書体だという意識が強くなればなるほど、泥沼に足を踏み込むことになってしまう。たんたんと作業をすすめていった。当時は、この書体を担当することによって、和字書体の奥義が理解できたというようなことはなく、その後の和字書体の設計に影響を与えられたとも感じていなかった。しかしながら、この書体を担当したからこそ、今があるのだとつくづく思う。
●完成した「かな民友明朝」で組んだもの。
ところで、ベースとなった民友社初号明朝体活字の和字書体は、東京築地活版製造所のものと同じ系統にあると思われる。今にして思えば、民友社初号明朝体活字ではなく東京築地活版製造所のものを復刻したかった。ともあれ、鈴木勉氏は秀英舎系の、私は築地活版系の初号活字を復刻していたことになったのである。