2023年08月18日

[追想2]暗雲そして激震(1988年)

1988年の年明けから暗雲が立ち込めます。その日のことは、『文字を作る仕事』(鳥海修著、晶文社、2016年)に書いてあります。

しかし私が入社してから一〇年ぐらい経ったある日のこと、デザイナーが四〇名ほどいる大部屋から、ほぼ半数が突然いなくなったことがあった。数時間後に戻ってきたが、「どうした」という質問に答えてくれる人は誰もいなかった。箝口令が敷かれたらしい。直属の上司に聞くと「私だって分からない!」と言われる始末で、それ以来、なんだかなあ状態になってとても働きづらくなってしまった。

私も、鳥海さんと同じく居残り組でしたので、不可解な思いでした。当時ある噂が流れていましたが、事実かどうかわかりませんのでここでは触れないでおきます。
その疑問は、3月の組織変更と人事異動で明らかになります。全社的には、総務部担当の専務の名前が組織図から消え、開発本部長、文字部長などの幹部が更迭されていました。文字部から文字開発部が分離され、文字開発部長には事実上、社長が兼務することになっていたのです。
写研は当時、本部制を敷いていて、文字部、文字開発部ともに製造本部に属していました。したがって、文字開発部長は、製造本部長が兼務ということになりましたが、これは形式的なもので、社長が直接管理するということなのです。それで事実上という表現にしました。
文字開発部においても、突然いなくなっていたメンバー、すなわちM課長がピックアップしたメンバーが新たに「デザイン課」となり、居残り組は、石川課長の「制作課」ということになっていました。鈴木勉係長、私、関谷攻係長、鳥海さんも、石川課長の「制作課」ということになりました。石川課長もどうしたものか頭を悩ませている様子でした。
ところが、その人事異動のすぐ後で、私にとっては光明が差し込みました。同年4月、第10回石井賞創作タイプフェイスコンテストで第1位に選ばれたのです。すぐに商品化へ動き出すことになり、ここに至って、「制作課」のなかで「デザイン課」の業務を行うというねじれが生じることになりました。
posted by 今田欣一 at 11:14| 活字書体打ち明け話・2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年08月09日

[追想2]「本蘭」第2章と「紅蘭」第1章(1985年)


1985年、写研は創業60周年を迎え、記念感謝パーティーが開催されました。
私が出席したのは社員の集いでしたが、専務がファンだという当時のアイドル、柏原芳恵さんがゲストで、たいそう盛り上がっていたと記憶しています。
同年の「写研フェア」(展示会)には電算写植システムの数多くの機種と、デジタルタイプの数多くの書体が発表されました。特に「本蘭明朝ファミリー」と「紅蘭楷書ファミリー」は、私は直接担当していなかったものの、電算写植を代表する書体の開花だと思っていました。

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そして今後ますます繁栄していくことは疑う余地もありませんでした。1988年のあの日までは……。
posted by 今田欣一 at 08:13| 活字書体打ち明け話・2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年08月08日

[追想1]直属の上司


写研に入社することになったときに勝手に思い描いていたのは、ベテランの方について徒弟制度のように最初は見習いから始まるのかなあということでした。
実際には若い人ばかりで、その職場には高校卒か専門学校卒が多くて、曲がりなりにも大学卒で入社した私より年齢が下の方が多かったのです。例えば、藤田重信さん、岡田安弘さんたちは社歴では先輩ですが、私より年下でした。
このような話をある人にしたことがありますが、これをずっと覚えていたようです。
「自分が大卒であると自慢していたけど、(専門学校卒である)鈴木勉さんをバカにしていることになるんだぞ!」
こういう受け取り方をされていたことに驚きました。言葉づかいは難しいですね。

鈴木勉さんは、私が入社した時に「スーシャL」という書体を制作されていました。新入社員教育も担当していただき、その後「スーシャB」の制作に加わりました。それから、鈴木さんが退社される1989年3月までの12年間、(少しの期間を除き)ずっと直属の上司でした。
私が第7回石井賞創作タイプフェイスコンテストで第1位になったとき、鈴木さんから言われたことを覚えています。要約しますと、
「たまたま一位になっただけで、他の人より優れているわけじゃない。今まで以上に謙虚な態度で人と接するようにしなさい。おめでとう」
鈴木さんは第2回、第3回石井賞創作タイプフェイスコンテストで連続して第一位となり、写研社内で社員として制作されていました。自分の経験を踏まえたアドバイスだったように思いました。
posted by 今田欣一 at 10:48| 活字書体打ち明け話・1 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年08月07日

[余聞1]秀英明朝(SHM)の担当者は誰か?

秀英明朝(SHM)については、いろいろな書物で取り上げられています。特に誰が担当したかは注目されているようです。その部分を抜粋してみることにします。

最初に取り上げたのは『鈴木勉の本』(鈴木本制作委員会編、字游工房、1999)だと思われます。

漢字の復刻は今田欣一氏がチーフとなってまとめ上げた。


続いて、『秀英体研究』(片塩二朗著、大日本印刷、2004)では、3ページにわたって詳しく紹介されています。

実際の漢字制作には数名のスタッフがあたり、印字物の監修はおもには今田欣一があたった。また随時、新井孝・橋本和夫・石川優造・鈴木勉がチェックしていた。

上司の関与を経て、ということですね。

『一〇〇年目の書体づくり』(大日本印刷著、大日本印刷、2013)でも触れられています。

書体の仕様は、写研の鈴木勉、今田欣一氏らがまとめ、実際の制作では漢字は関谷攻、仮名は鈴木勉が取りまとめた。

補足すると、書体の仕様書は私が起票し、上司である鈴木勉氏がチェックしました。さらに漢字書体の実際の制作では私が直接的に監修をしましたが、その時の上司が関谷攻氏だということです。

『時代をひらく書体をつくる』(雪朱里著、グラフィック社、2020)では、橋本和夫氏のインタビューとして書かれています。

仮名は鈴木勉くんが担当し、漢字は今田欣一くんがチーフとなって制作しました。


『杉浦康平と写植の時代』(阿部卓也著、慶應義塾大学出版会、2023)では次のように書かれています。

制作の実務は、橋本和夫の監修のもと、鈴木勉と今田欣一が担当した。


これらのほかに、『書体のよこがお』(室賀清徳・長田年伸編集、グラフィック社、2023)にも書かれているようです。
いずれの書物でも、元社員のどなたかに取材したものと思われます。証言者の立場によって少し異なって感じますが間違いはありません。担当した社員の個人名は(元)社員しか知り得ない情報であり、仕様書や作業方法の詳細をレポートしているものもあります。
株式会社写研から見れば、モラルに反するというのでしょうか?

また、私が担当した秀英明朝の漢字書体制作に関して、『鈴木勉の本』の中のある寄稿文には次のように書かれています。

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漠然とした印象では、以前から写研にあった石井特太明朝(EM)の影響を受け過ぎているのではないかという疑いをもっていた。
SHMとEMをくらべて打ってみた。「世」「伊」では、両者はかなり似ているようだ【図1】。

秀英明朝と石井特太明朝の「世」と「伊」とを例示して「似ている」としていますが、原資料の『明朝初号活字見本帳』(秀英舎、1929)に「世」も「伊」も存在するので、これと比較すれば明らかだと思います。

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異議申し立てをするというほどではないのですが、当事者として、本当のところを資料に基づいて書き残したいと思っているだけです。
posted by 今田欣一 at 08:01| 活字書体打ち明け話・1 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年08月06日

[追想1]書道部とか茶道部とか華道部とか

写研共済会は社員の福利厚生のための団体で、『ユッカ』という会報を発行していました。五日市レクリエーション・センターをはじめ、保養所(吉浜・海の家、富士・山の家、草津、苗場、蓼科、宇佐美、江ノ島、京都)の運営、食料雑貨などの斡旋販売、冠婚葬祭の補助などの活動を行っていました。
また、高校の部活のように、運動部では野球部やサッカー部、文化部では書道部、茶道部、華道部などがありました。茶道部、華道部は、外部から先生に来てもらっていたのですが、書道部だけは、(社員の)橋本和夫さんが顧問となって活動していました。
私は書道が上手でもなかったし好きでもなかったのですが、タイプデザインのために少しは知っておいた方がいいということから個人的に通信教育で勉強していました。しかしながら、趣味として楽しんだり師範をめざしたりということを希望していなかったので、書道部には入っていませんでした。

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ちなみにOさんは、書道部はもちろん、茶道部にも所属していました。また、文字部内で華道部に入っている人がいたように思います。
posted by 今田欣一 at 10:08| 活字書体打ち明け話・1 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする