2014年09月06日

[偉人伝]第5回 石井楷書体

石井茂吉(1887−1963)が制作した書体のなかで、筆で書いたものをそのまま文字盤にしたような書体が、1912年(昭和7年)に制作された「楷書体(のちの石井楷書体)」である。おそらくそのような制作方法だったのだろう。もともと石井には書の素養があったと聞いている。
「石井楷書体」は、おもに書写の代用として用いられた。『組みNOW』(写研・写植ルール委員会、1975年)でも、名刺、はがき、それに挨拶状の見本として「石井楷書体」が挙げられている。

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 需要がなかったのだろうか、「行書体」も「隷書体」も制作されていない。もし制作されていたら、どのような書体だったのだろうか。「曽蘭隷書」「岩陰行書」とはことなり、より優美な書体になったに違いない。
posted by 今田欣一 at 07:51| 偉人伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月05日

[偉人伝]第4回 石井ファンテールと石井丸ゴシック体

石井茂吉(1887−1963)の書体制作の目的は、自ら発明した石井式写真植字機の普及にあった。おそらく書体設計の創作性などということは考えもしていなかっただろう。
 写真植字機の普及のために、一般的な印刷だけではなくさまざまな分野にも目を向けていた。

映画のために……字幕体(1934年)
まだ印刷の分野では実用化されていない頃から、それに先駆けて映画ではタイトル専用の写真植字機が使われていたようだ。「字幕体」は映画字幕専用として制作された。無声映画の字幕などに使われたということだ。
 残念ながら、この書体の文字盤はまったく残されていないようだ。筆者は見たことがない。わずかに『書窓』1936年(昭和11年)1月号の図版で見ることができるのみである。

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地図のために……石井ファンテール(1937年)
1937年(昭和12年)頃から戦時色が濃くなってきた。写真植字機は軍関係で使われるようになってきた。金属活字より簡便なので、軍内部の文書の組版に使われていった。そのころ地図の標題用として制作されたのが「石井ファンテール」である。

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 筆者はこの書体の原字を見たことがある。「石井太ゴシック体」の青焼きの上に直接墨入れしたものだった。つまり骨格は「石井太ゴシック体」と同一なのである。欧字書体の fantail からヒントを得たとされる東京築地活版製造所の「ファンテール形」を参考にしつつ筆法を変えながら画いたと思われる。原字サイズは、17mm−18mm格ぐらいだと記憶している。今から考えるとかなり小さい。
 この原字から想像すると、「石井中明朝体」も東京築地活版製造所の12ポイント活字を4倍ぐらいに拡大し、それを青焼きにとり、直接墨入れするという方法で制作したのだろう。
 ところで「石井ファンテール」は写研の名刺に使われていることで、社員にとっては馴染みの深い書体である。

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(写研在職時の1995年当時の名刺です)

銘板のために……石井中丸ゴシック体(1956年)
1956年(昭和31年)、銘板用に「石井中丸ゴシック体」が制作された。銘板とは、小型の平板に銘柄や仕様を表示したものである。用途や場所などによって種類も数多くある。案内板、プレート、機器に貼られている説明や注意書なども銘板である。1958年(昭和33年)には、同じく銘板用として「石井細丸ゴシック体」と「石井太丸ゴシック体」が作られた。

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 もともと銘板用に制作された「石井中丸ゴシック体」だったが、はじまったばかりのテレビ放送に最適だということになって、おもに報道番組に使われるようになったということである。
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2014年09月04日

[偉人伝]第3回 石井明朝体・石井ゴシック体・アンチック体

石井茂吉(1887−1963)は、1930年から1935年までに、本文用の明朝体(のちの石井中明朝体+オールドスタイル小がな)、太ゴシック体(のちの石井太ゴシック体+小がな)、それにアンチック体(和字書体のみ)を制作している。
 明朝体・ゴシック体・アンチック体が基本的な3書体ということなのである。『デジタル大辞泉』の「活字書体」の項にも次のように書かれている。

活字書体
活字として、印刷を前提にデザインされた書体。和文には明朝(みんちょう)体・ゴシック体・アンチック体など、欧文にはローマン体・イタリック体・ゴシック体・スクリプト体などがある。

 写真植字機を普及させるために、どうしても必要な書体だったのだろう。当初は東京築地活版製造所の活字をコピーしていたが、写真植字機での印字ではうまくいかず、試行錯誤を繰り返して、写真植字機にマッチした独自の書体を作り上げた。

石井中明朝体+オールドスタイル小がな(1933年)
東京築地活版製造所の12ポイント活字を模して制作していたが(「仮作明朝」)、当時の写植文字盤の精度では、横線がとびやすくなるなどの欠点があった。
 そこで、あたらしい「明朝体」の設計においては縦線、横線の比率を検討した。すなわち横線を太く縦線を細くした。さらに横線の起筆に打ち込みをつけるようにした。
 写真植字機の特性を最も生かした「明朝体」をめざすことと、石井の個性とが結ばれて、結果的に毛筆の味わいのある優美な書体となった。それが石井書体として評判を呼び、写真植字機の普及へと繋がることになる第一歩であった。
 なお、当初は「明朝体」だったが、「細明朝体」が完成したときに「中明朝体」となり、さらに「本蘭細明朝体」などと区別するために、「石井中明朝体」と改名された。

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石井太ゴシック体+小がな(1932年)
石井は「明朝体」の制作と並行して「太ゴシック体」の制作にも着手した。「太ゴシック体」も写植文字盤の特性を生かすように設計されている。
 金属活字のゴシック体は同一の太さで均一に設計されていたが、この「太ゴシック体」では起筆、収筆が太くなっている。「明朝体」と同様に、毛筆の味わいをとりいれた優美な書体に仕上がった。

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アンチック体(1935年)
つづいて石井が取り組んだのが「アンチック体」である。当時、印刷業界の要望が多かったのだろう。ところが「特殊文字盤」扱いで、詳細について書かれたものがない。今でも単なる「アンチック体」のままであり、「石井アンチック体」となっていない。不憫な書体である。
 残念なことに「アンチック体」の漢字書体は制作されてはいない。おそらく使用目的が辞書用とされていたか、最初から「太ゴシック体」の漢字書体と組み合わせることを前提としたのだろう。

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上:アンチック体(中見出し用)、下:オールドスタイル小がな

 筆者は「アンチック体」の漢字書体を試作してみたことがある(下図の左、2002年試作)。『富多無可思』(青山進行堂活版製造所、1909年)に掲載された「五號アンチック形」見本(下図の右)を参考にした。
 イメージとしては、欧文書体の「スラブセリフ」に近く、中文書体の「黒宋体」のように、「宋体」と「黒体」の中間である。
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posted by 今田欣一 at 08:21| 偉人伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする