2013年12月18日

番外編 木活字を彫刻してみた

 鋳造活字も原字制作の技術としては写真植字と変わりのないものなので、それ以前の直接彫刻による木活字製作をやってみたくなった。
 2000年11月の橋本和夫氏『文字の巨人』インタビュー(字游工房ウェブサイト)で、つぎのようなことが述べられている。

 太佐先生から僕は、文字の画線をフリーハンドで描くことを教わりました。習いはじめは烏口や溝尺などは使わせてもらえなかったですね。明朝の『永』をフリーハンドで書くことを指示されました。この意味は、画線の力を入れるところや抜くところなどの動きを体得するためです。彫刻の活字は、彫刻刀を自由に動かして文字を彫るのですから、いわゆる生きた線の文字が生まれたのでしょう。手書きの線は、画線の動きを意識するためか、不思議に自然な線質になるものでした。このようにして線質を見分ける能力が開発されました。(後略)

(前略)書道では、漢字・仮名の形のユニークさを生かして、大きく書いたり、長く書いたりして文字の流れを構成して、一幅の作品を完成させます。ところが活字では、どのように組み合わせても文字を生かせるために、四角の制約があり、その中に文字をデザインするには書道とは別の感覚が必要なわけですね。それらの技術を習得していたのは、元々活字を彫刻していた人のほうですから、取り組みが容易だったということでしょう。


 彫刻の活字を実験してみた。
 まず、木駒になるものを探した。最初はサクラ材で試したが、初心者には堅すぎて歯が立たなかった。そこで少し柔らかめの材料で、サイズは初号より少し小さいが15mm角のものを買い求めた。しかし柔らかすぎるとエッジがきれいにならない。やはりサクラ材のような堅いもので実験することにした。
 彫刻刀は、とりあえずの実験用として、とりあえず木工用の1.5mmと3mmのものを用意した。DIY用の安価なものである。そのほかの道具は、篆刻用の印床、硯などを代用した。スタンドルーペはネイルアートなどのために売られていたものである。

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●彫刻の活字の用具

@ 字入れ
木駒の小口に直接、面相筆で裏字に描いていく。まず朱墨でだいたいの当たりをつけ、墨で描いていく。墨と朱墨で修整を繰り返しながら仕上げる。朱墨ではなくホワイトのほうがよいかもしれない。

A 彫刻
彫刻には木活字のほかに種字彫刻がある。木活字は、近年では金属活字がなかったときに足し駒としても製作されてきたようだ。この実験では、木活字を製作することにする。ちなみに木駒の種字彫刻は、金属活字の母型をつくる前工程なので、条件が厳しくなるし、現在では再現する技術が一般的ではない。それに種字彫刻は後処理が比較的容易な鉛合金の種字彫刻になっていった。地金彫師といわれている人である。

posted by 今田欣一 at 20:58| 福岡の夢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月19日

[福岡の夢] エピローグ:「ひかり」で東へ

 株式会社写研の入社試験の前日、東海道・山陽新幹線「ひかり」で上京した。まだ右も左もわからなかった。試験は全くできなかったし、宿泊先では不慣れなことによるちょっとした間違いで管理人に叱られたりして、散々だった。すっかりあきらめて一人福岡に戻った。
 就職活動にみんなで上京したが不調に終わったあとのことだった。その報告に清水国夫教授(現在岡山大学名誉教授)の研究室に行ったら、一通の求人票があった。職種=タイプフェイス・デザイン。締め切りは次の日だった。願書を航空便で送付するため、友達の車で福岡空港へ急いだ。
 試験日から10日後、採用通知が届いた。

 1976年の春から卒業研究の準備にはいった。ぼくのテーマは、文字以外には考えられなかった。このときにはタイプフェイス・デザインということはまったく考えてはいなかった。いろいろな方面から資料を集め、自分なりのテーマに集約していった。
 文章は写真植字で組んだ。大学の写真植字機はモリサワ製だったので、写研の書体が使える福岡写植というところに印字を依頼した。石井細明朝体+タイポス35で組みたかったのである。パネルに貼ることを考えていたので、金属活字版より都合がよかったのである。
 これが写真植字との本格的な出会いである。

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●卒業研究のための写真植字

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●写真植字の領収書

 卒業研究作品展は、1977年2月15日から20日まで、雪の中、福岡県文化会館で開催された。ぼくは、卒展学生委員長をやらされてしまったので、毎日出掛けた。ポスターと、カタログのデザインもぼくが担当することができたのはよかったとおもう。

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●卒業研究作品集

 清水教授の推薦により、ぼくの作品は12枚すべてが展示された。そして、それは福岡の新聞にも取り上げられた。デザイン誌『アイデア』、さらには『日本タイポグラフィ年鑑』にも掲載された。また卒業式では、学長賞(学術優秀賞)を戴くことができた。

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●卒業研究「日本語文字の研究」

 1977年3月の終わり、こんどは実家から「ひかり」で東京に向かった。ぼくが新入社員として、株式会社写研に就職したのは1977年4月1日のことだった。
 同じ日に山口百恵のうたう「夢先案内人」(阿木耀子作詞 宇崎竜童作曲)が発売された。ピンク・レディ「カルメン77」、キャンディーズ「やさしい悪魔」、西城秀樹「ブーメラン・ストリート」などがヒット・チャートをにぎわしていた。
 4月11日、「夢先案内人」がヒット・チャート第6位に初登場。第1位はピンク・レディの「カルメン77」だった。ぼくは一週間の新入社員教育期間を終えて、この日から職場に配属された。同じ職場には、ぼくを含めて3人が配属になった。ここでもすぐに仕事につくのではなく、約3ヶ月間にわたって研修をうけることになるのだ。
posted by 今田欣一 at 08:17| 福岡の夢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月15日

[福岡の夢] 1976年:「貘」の鋳造活字

 大学時代の帰省時には、大西商店印刷部という印刷会社でアルバイトをした。アルバイトだったが、当時の大西社長の好意で、文選・植字から、印刷、製本まで、ひととおりのことを体験させてもらった。大西商店印刷部には写真植字機はなく、金属活字による印刷が主だった。
 実際のアルバイトとして作業したのは、こまごまとした雑用ばかりだった。大西社長にくっついて、「これやって!」「終わったら、つぎこれね!」の繰り返しだったので、どのようなことがあったのかははっきり覚えていない。

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●大西商店印刷部(撮影:2011年)
1976年当時とは大きく変わっている。


 1976年の春休みには、『備前焼の鑑賞』(日幡光顕著、備前焼鑑賞会、1976年)の製作を手伝った。といっても、丁合とか(手作業だった)、封筒に入れる作業とか、簡単なことだけだったが、今もまるで自分の担当した書物のように愛おしく思えるのである。

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●『備前焼の鑑賞』

 とくに印象に残っているのは、活字を鍋で煮て、活字合金の延べ棒をつくるという作業であった。まさに活字は生きていると思った。一歩間違えば大やけどをするかもしれないので、緊張しながら作業していたのを思い出す。
 印刷会社なので、活字をつくる工程までは体験できなかったけど、この「活字鍋」の体験が、金属活字への興味をますます高めたのである。『書体デザイン』(桑山弥三郎著、グラフィック社、1972年)には、株式会社モトヤでの活字製造工程が書かれていた。

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●『書体デザイン』

 その株式会社モトヤも、1996年7月31日をもって、創業以来75年間にわたって製造してきた金属活字から撤退している。なお、株式会社モトヤ大阪本社2階において、「活字資料館」として、金属活字の製造や組版作業の過程を常設展示している。

 のちにぼくが強く影響を受けることになる橋本和夫氏は、若い頃に金属活字での活字書体設計を経験されている。『文字の巨人』のインタビュー(字游工房ウェブサイト)で、つぎのように述べている。

「モトヤで僕がラッキーだったと思うのは、文字デザインの作業をしながら、写真製版の作業も担当したことですね。母型作製のベントン彫刻機では、原字を書いて、それを亜鉛板の凹版にして、その凹版をもとに文字を探って、縮小された文字が彫刻されます。こうしてできたものが母型です(母型は活字鋳造の親になる)。この凹版を作製するのが、写真製版の技術です。
 つまり、紙に書いたものを写真に撮って、それを亜鉛板に焼き付けて、腐食をし凹字にして、そしてベントンで彫刻するというプロセスです。パターンと呼んでいましたが、原字作業をやりながら、僕はその写真製版も担当していたんです。
 写真製版をやるとね、原字のこういうところはもっと太めておかないとダメだとか、こういうところは細めておかないと写真製版で太まってしまうとかいうことが、よくわかってくるんです。要するに、原字をデザインするノウハウというか、文字の仕様に掲げられていない、ひとつの製品になるための工程上の許容誤差など、それらを学びましたね。活字は原字をそのまま再現することが前提だけれども、製造工程上、どうしても忠実に再現できない部分が現実にはあり、実際に活字になるまでのことを考えながら、文字はデザインしなくてはならないことを、僕はそこで習ったような気がします。原字をデザインするということは、周辺技術の認識も必要とされる大変な作業なのだとも再認識しましたね」


 第2回「七味展」は、10月18日から23日まで、福岡・新出光サロンで催された。このときぼくは不本意な作品を出品した。このときは考えもしなかったが、「鋳造活字」での印刷物という手もあったなと、40年近く経って思っている。

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●第2回「七味展」

 12月には、九州産業大学の近くにあった喫茶店「貘」のオーナーが、親不孝通りに「屋根裏貘」を開店した。併設の「アートスペース貘」は、5.5坪の小さなギャラリーだが、全面が真っ白で、毎年、年末になると壁を白に塗り新しい年を迎えるという。芸術学部の教員、OBはもちろん、学生にとっても発表の場となっていった。

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●「屋根裏貘」(撮影:1995年)

 いつの日にか「貘1973」の和字書体1フォントを鋳造活字で製作したいとも考えている。
posted by 今田欣一 at 13:13| 福岡の夢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする