2013年06月23日

[福岡の夢]プロローグ:「雲仙3号」に乗って

 1973年4月のある日、急行「雲仙3号」に和気駅から乗車した。急行「雲仙3号」は京都と長崎を結ぶ夜行列車だ。午後9時24分に和気駅を出発する。夜行とはいえ、寝台車ではない。普通の客車である。かたい座席に座って行くのである。
 当時、岡山のラジオ局RSKで流れていた、「新幹線ができたら…」という歌いだしの「正調ふるさと節」というフォーク・ソングがあった。桃太郎合唱団という岡山操山高校の同級生によるフォーク・グループで、メンバーはそれぞれ東京や京都の大学に進み、夏休みなどに郷里の岡山で、バンド活動をしていた。山陽新幹線の岡山開業は1972年3月である。それ以降は「新幹線ができたよ…」に変わったのだそうだ。
 岡山から東京へは山陽・東海道新幹線があったのだが、博多に向かう新幹線はまだなかった。もちろん昼間の特急「つばめ」はあったが、安価な夜行の急行を使うことにしたのだ。1975年の新幹線博多開業までは、和気駅に停車する急行「雲仙3号」を利用することが多かったように思う。
 ほとんど眠れなかった。デザイン学科にすすむきっかけとなったふたつの通信教育講座、「レタリング専科」と「近代孔版技術講座」のことが、走馬灯のように頭のなかを駆けめぐっていた。

 日本通信美術学園「レタリング専科」受講のきっかけは、もとをたどれば漫画だった。
 たしか小学校5年生の頃だった。ぼくは漫画の制作に熱中していた。最初の頃は、ノートに鉛筆で描いていたが、『ぼくらの入門百科 マンガのかきかた』(冒険王編集部、1962年、秋田書店)という本を教科書にして、模造紙に製図用黒インクで描きはじめた。田舎だったので、ケント紙さえ近くの文房具屋にはなかったのだ。

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●『ぼくらの入門百科 マンガのかきかた』

 小学校低学年の頃からぼくは月刊漫画雑誌『少年』をずっと購読していた。『少年』は、『鉄腕アトム』をはじめ、『鉄人28号』や『サスケ』など人気漫画を掲載していた。ぼくがいちばん好きだったのは、『ストップ!にいちゃん』だった。これらに影響を受けて漫画を描き始めたのだ。なかなかうまく描けず、完成したものはなかった。

 漫画のタイトルや学級新聞(壁新聞)のタイトルのために、ぼくが日本通信美術学園のレタリングの講座を受講することにしたのは、小学校6年生の時だった。最初、ぼくにはかなり難しく思えたので躊躇してしまった。日本通信美術学園からはひっきりなしに受講を勧めるDMが送られてきた。思いきって受講することにしたのである。
 教材が届いた。デザインの用具も初めて買い揃えた。予想どおり悪戦苦闘で課題の提出はかなり遅れた。小学生のぼくにとって通信教育だけではよく理解できないことがあった。いつもABCの三段階評価でBばかりだった。それでも最終課題まで諦めないで続けていった。通常は6ヶ月だが、延長戦の期限である2年間をフルに使った。1968年8月までかかり、やっとのことですべての課題の提出を終えた。級位認定は最低の6級だった。すでに中学2年生になっていた。
 レタリングの技能が役に立ったのは、岡山県統計グラフコンクールへの参加だった。ひとつのテーマについていろいろなグラフを体系的に構成し、わかりやすく、美しく表現するというものである。とくに中学3年のときには1席を獲得し、はじめて新聞に名前が掲載された。文字のデザインが好きになった。

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●レタリング専科級位認定証

 実務教育研究所「近代孔版技術講座」を受講したきっかけは、もとをたどれば学校新聞だった。
 新聞製作に興味を持つようになったのは、小学6年生の時作った学級新聞であった。ぼくの入学した中学校に新聞部はなかった。文芸部では年1回発行の部誌を発行していた。この頃は、何でも謄写版印刷だった。ぼくは文芸部の部員ではなかったが、作文などを投稿した。岡山県の児童生徒作文コンクールに入選していたので、作文には少しだけ自信を持っていた。
 中学校3年生になった4月、数名の仲間が参加して新しい「新聞部」がスタートした。新聞の名称は、『ワケッコ』とした。謄写版印刷で、年4回発行という地味な活動であった。生徒会からの連絡や、クラブ活動のレポートといった記事が多かった。『学校新聞ハンドブック』(川野健二郎・佐々木守共著、ダヴィッド社)という本だけを頼りに、自分たちだけで切り開いていった。
 高校2年の時、ミニコミ誌に興味を持ち、ミニコミ誌グループを結成した。はじめ、ある雑誌を通じて全国から会員を募り、同人雑誌みたいなものを編集して送付することにした。この同人雑誌を発行するため、小遣いをはたいて簡易卓上印刷器である謄写版印刷機を購入した。これを個人で持っているひとは周囲にはいなかった。そのうえ、文部省認定社会通信教育だった「近代孔版技術講座」を受講したのである。

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●「近代孔版技術講座」基礎科第1部テキスト

 謄写版は孔版の一種で、俗にガリ版ともいう。ヤスリの上に原紙をおいて、鉄筆で文字を書くことからはじまる。孔版文字の基本書体は楷書体とゴシック体である。楷書体は斜目ヤスリ、ゴシック体は方眼ヤスリを使用する。私の購入したヤスリは、斜目ヤスリと方眼ヤスリとが裏表になっているものであった。
 ぼくはもっぱら方眼ヤスリを用いたゴシック体で書いていた。ゴシック体といっても、手書きには変わりないわけだから、活字のように鮮明なものではない。それでも、活字のまねをしたくて、この孔版文字を勉強したのである。

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●謄写版印刷機
まとめて押し入れの中にしまってある。二度と謄写版で印刷するということもないだろう。それでも謄写版印刷機も、ヤスリも、鉄筆も捨てられない。思い出の品なのである。


 急行「雲仙3号」は博多駅に午前6時13分に到着した。博多駅から鹿児島本線で少し戻り、東郷駅で降車。西鉄バスで、福岡県宗像郡玄海町(現在の宗像市)神湊へ。ここに大学の男子寮、「宗像寮」があった。福岡の夢のはじまりである。

2013年06月29日

[福岡の夢]1973年:「貘」の原点

 「宗像寮」では、午前7時に校歌が大音量で流され、入寮したばかりの寮生は否応なく起こされた。午前8時に大型バス5台を連ねて、45分ぐらいで大学に到着するのである。大学に行くのでさえ大変なのだから、福岡市の中心部に行くことは滅多になかった。もっともぼくが出不精なだけで、天神あたりにしばしば繰り出していた寮生はいたのだろう。
 そのころの天神といえば、音楽喫茶「照和」が知られていた。「昭和の世の中を明るく照らしたい」というオーナーの願いで名付けられたそうだ。当時は「妙安寺ファミリーバンド」などがメインだった。すでにチューリップ、海援隊が巣立ったあとで、翌年には甲斐バンドもプロ・デビューする。

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●音楽喫茶「照和」(撮影:1995年)
※音楽喫茶「照和」は1978年に一時閉鎖したが、1991年4月に復活している。


 まだ「照和」ができる前のことだが、RKBの「スマッシュ!!11」では視聴者が作った音楽を流すコーナーで井上陽水が持ち込んだ「カンドレ・マンドレ」が放送され、デビューのきっかけとなったという。「照和」に出演していたバンドは、ほとんどがKBCの「歌え!若者」という公開録音番組にも出ていた。寮生活ではいつもラジオをよく聞いていた。
 前年に「魔法の黄色い靴」でデビューしていたチューリップは、財津和夫の作詞作曲による「心の旅」が4月に発売され、メインボーカル姫野達也のあまい歌声で徐々に人気が出始めていた。井上陽水はすでに「夢の中へ」をはじめヒット曲を連発していた。

 高校時代につくっていたミニコミ・サークルは、ぼくが福岡県に住むようになり、メンバーもそれぞれ香川、京都に住んだので、郵便によって連絡を取り合って活動を続けていた。同人雑誌は『自画像』と名を改め、自分たちの原稿を中心に構成するようになった。
 『自画像1973年夏号』(1973年6月発行)が創刊号なのであるが、いまは残っていない。18ページという薄っぺらなもので、表紙、本文ともに謄写版印刷であった。したがって「自画像」というタイトルも鉄筆とヤスリによるレタリングだった。
 ミニコミ誌がブームになっていた。『自画像1973年秋号』(1973年9月発行)では、そういったものに少なからず影響を受けた。本文は謄写版印刷だが、表紙だけはオフセット印刷にした。タイトルは『自画像1973年夏号』の謄写版で描いたレタリングをもとにした。表紙の写真は宗像寮のあった神湊の砂浜で撮影したものである。大きなラジカセが時代を感じさせる。

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● 『自画像1973年秋号』表紙

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● 『自画像1973年秋号』本文

 「香椎祭」(大学祭)のゲストはデビュー間もない海援隊だった。昼休みになると、学内にデビュー曲の「恋挽歌」が流されていた。「さの恋挽歌〜」というフレーズが耳に残った。サックスのイントロは、どうしても演歌にしか聞えなかった。
 芸術学部の前の駐車場に特設ステージが組まれた。当時から武田鉄矢のトークは軽妙だった。「母に捧げるバラード」や「おかしな野郎」を初めて聞いた。とくに「母に捧げるバラード」は、友人たちの間でも評判になっていた。この年の年末にシングルとして発売されて、翌年大ヒット曲となった。

 『自画像1973年冬号』(1973年12月発行)は、高校の学校祭のパンフレットを作成した経験から、タイプ孔版でやるようになった。その印刷も高校の前にある旭東印刷というところに頼むようになった。タイプ孔版というのは、手書きの変わりに和文タイプライターを使って打ち込むのである。

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●『自画像1973年冬号』本文

 この頃から、東京・新宿の模索舎などミニコミ誌専門の書店で『自画像』を販売してもらった。これは全く売れず失敗に終わったが、自費出版の最初の経験になった。そうして、活字への憧れは大きく膨らんでいったのである。

 販売するからにはせめてタイプオフセット印刷にすればという旭東印刷のすすめがあったので、つぎの『自画像1974年春号』はタイプオフセット印刷を考えていたが、メンバーがバラバラであることや資金難もあって発行できなかった。こうしてぼくたちのミニコミ・サークルは三年間続いて解散した。

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●岡山・和気 旭東印刷(撮影:2011年)

 このとき「自画像」のレタリングを書き直したが、それは日の目を見なかった。今は何も残っていない。40年ぶりに、記憶だけをたよりに再現してみた。レタリングの用具も、当時使っていたものに近いものを揃えた。久しぶりの制作で思い通りにはならなかった。視力が衰えてしまったことを実感したのであった。

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●「自画像」のレタリング(再現)
※これが「貘1973」の原点である。「貘」は大学の近くにあった喫茶店の名前から。

追記

2013年07月05日

[福岡の夢]1974年:「貘」のスケッチ

 西鉄宮地岳線は、1974年ごろには貝塚駅から津屋崎駅を結んでいた。もともとは西鉄博多駅と津屋崎駅を結んでいたそうだが、すでに西鉄博多駅(千鳥橋電停に改称)と貝塚駅の間が市電に変わっていた。ぼくは、こののどかなローカル線が好きだった。
 大学の最寄り駅は、香椎駅か西鉄香椎駅であった。このふたつの香椎駅は松本清張の『点と線』でトリックとして使われている。大学から香椎駅前まで行くには歩いて20分ぐらいかかった。大学のちかくに「九産大前駅」ができたのは、ぼくが卒業してからのことだ。
 まだ「宗像寮」にいたぼくは、スクールバスのない休みの日には、神湊から路線バスで津屋崎駅に行き西鉄宮地岳線に乗って、西鉄香椎駅から大学に向かった。天神や博多駅に行くにも、西鉄香椎駅から貝塚駅で市電に乗り換えるのが一番便利であった。地下鉄はまだなかった。
 1973年12月にオープンした香椎アピロスは、ユニードのショッピングセンター第1号店である。対向車線側のビルには、積文館書店が開店した。講義のない時間には、香椎アピロスと積文館書店で暇をつぶしていたものだ。
 
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●西鉄香椎駅(撮影:1995年)
2006年に路線変更と高架化があり、西鉄香椎駅は建て替えられてすっかりきれいになっているそうだ。


 大学2年のとき、必須科目として「デザイン基礎演習」というのがあった。その内容は「レタリング」だった。担当は河地知木さん(当時は講師。現在は教授で、元芸術学部長)。河地さんが用意したコピーを真似てケント紙の上に再現するというものだった。
 10年後の1984年に1冊の書物が刊行された。『文字の歴史とデザイン』(白石和也・工藤剛・河地知木共著、九州大学出版会、1984年)である。この実技に関するページは、「デザイン基礎演習」での演習内容をまとめたもののようだった。

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●『文字の歴史とデザイン』

 ぼくは、成績が悪かったとはいえ、中学生のときに通信教育で「レタリング」は経験している。演習の内容に新鮮みはなく、物足りなく感じていた。クラスの中では間違いなくぼくがいちばん上手だったので、好成績で1単位もらえるのは確実だと思うだけだった。
 もっとも大きな収穫は、河地さんの雑談の中にあった。この年に募集された「第3回石井賞創作タイプフェイスコンテスト」(1974年)で、大学の先輩にあたる菅昌克さんが第3位に入賞したという情報がもたらされたのだ。はじめて写真植字というものを知り、写研というメーカーのことを知った瞬間だった。「文字のデザイン」に興味をもちはじめたのも、これがきっかけだったように思う。
 このとき、「自画像」のタイトルのレタリングから本文の活字書体へと、ぼくの興味がおおきく転換した。書体デザインというジャンルがあることを認識した。「デザイン基礎演習」だけではなく「タイプフェイス・デザイン」という課目があったら、まよわず履修していただろう。

 もし、「タイプフェイス・デザイン」という課目があったらという想定で、新しい書体を制作してみることにした。写植というものを知ったばかりで、まだピンと来ていなかった時期なので、「金属活字としての書体制作」を念頭におくことにした。これを大学の前にあった喫茶店「貘」にちなんで、「貘1973」と呼ぶことにした。

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●「貘」の漢字書体スケッチ

 漢字書体は、「自画像」のレタリングをベースにして再生してみることにした。まだ写真植字の原字制作のノウハウを知らないころなので、『書体の歴史とデザイン』の漢字書体(ゴシック体)のフリーハンド・レタリングを参考にして下書きをはじめた。あくまで大学2年生の自分が作っているという想定である。

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●「貘」の欧字書体スケッチ

 欧字書体は、『自画像1973年秋号』表紙の「OWN」というレタリングをベースに、『書体の歴史とデザイン』の欧字書体(サンセリフ体)のフリーハンド・レタリングを参考にした。とりあえずは文字だけを制作した。スペーシングを習うのは、3年になってからの「タイポグラフィ」という講義を待たねばならない。

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●「貘」の和字書体スケッチ

 『自画像1973年秋号』表紙に和字書体はなかった。さいわい目次のページに「いたずらがき」や「わるふざけ」、「阪神ファン」といったタイトル(謄写版印刷によるレタリング)があったので、それをベースに、『書体の歴史とデザイン』の和字書体のフリーハンド・レタリングを参考にした。

 1974年12月8日、アメリカのフランク・ショーターが香椎アピロスと積文館書店の間を駆け抜けていった。この年から名称が変更になった「第28回福岡国際マラソン選手権」で4連覇を成し遂げたのだ。今は香椎折り返しになっているが、当時は雁ノ巣折り返しだったので、大学の横も通っていったのである。
 西鉄宮地岳線は、2007年4月に、津屋崎駅から西鉄新宮駅までの区間が廃止され、西鉄貝塚線となった。香椎アピロスも、ダイエー香椎駅前店になったのち、1999年に閉店した。積文館書店も香椎から撤退している。思い出のスポットがどんどん無くなっている。

2013年07月11日

[福岡の夢]1975年:「貘」の原字シート

 1975年4月6日、プロ野球のペナント・レースがスタートした。太平洋クラブ・ライオンズは江藤慎一を監督として迎え、平和台球場で日本ハムを迎え撃つ。江藤慎一は中日で2年連続首位打者、ロッテでも首位打者を獲得して、史上初の両リーグ首位打者の快挙をなしとげたスラッガーである。パ・リーグでこの年から採用された指名打者をつとめる、いわゆるプレーイング・マネージャーであった。

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●平和台野球場(撮影:1995年)

 3月10日に国鉄の山陽新幹線で岡山・博多間が開業した。ぼくは2年間過ごした玄海町(現在の宗像市)の学生寮を出て、福岡市東区のまかないつき下宿屋に引っ越した。テレビは持っていなかった。ラジオでは地元のラジオ局が太平洋クラブ戦を中継していた。このころから、ぼくは太平洋クラブ・ライオンズのファンになった。
 開幕戦はエース東尾修の力投と、基満男のサヨナラ二塁打で太平洋クラブが4対3で勝った。第2戦は加藤初をたてて、10対1での大勝。なんだかおもしろくなりそうな予感がした。

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●印刷実習の風景(撮影:1974年)
ぼくのクラスの写真がないので、1学年上の方の写真を提供していただいた。


 「印刷実習」であこがれの金属活字との対面が実現した。名刺制作である。2号明朝体活字と5号明朝体活字しかなかったが、名前と住所と電話番号ぐらいの文選と植字をするのに、かなりの時間をついやした。それだけのことだが面白かった。
 手動写真植字機も大学に2台設置されていた。機種は忘れたが株式会社モリサワ製だった。写植の実習はなく、ぼくはさわったことがあるといった程度の記憶しかない。平版印刷の実習やスクリーン印刷の実習もあった。それらはあまり覚えていない。
 つまり、大学での授業で「文字を組む」という経験をしたのは、「金属活字」だったのである。

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●活字版による、はじめての名刺

 ラジオからは、西郷輝彦のうたう「君こそライオンズ」(作詞:黒瀬泰宏・本間繁義、作曲:中村八大)が毎日のように流れてきた。球団と放送局が選定した球団歌だ。
 この年のライオンズ打線は「どんたく打線」とよばれた。近鉄から土井正博、日本ハムから白仁天をトレードで獲得するなど、積極的な戦力補強に取り組んだのだ。投手陣も東尾修と加藤初の両エースを中心にそろっていた。「博多どんたく」は5月3日と4日に行われる大イベントである。
 1番サードはビュフォード、2番セカンドは基満男、3番ライトはアルー、4番レフトは土井正博、5番センターは白仁天、6番DHは江藤慎一、7番ファーストは竹之内雅史、8番キャッチャーは楠城徹、9番ショートは梅田邦三。これがスターティング・オーダーだ。
 ビュフォードは大リーグでも俊足好打でならしたバッター。アルーはドミニカ共和国出身で、大リーグでは首位打者をとっている。白仁天は韓国生まれ。死球王とよばれた竹之内、東京六大学で活躍した楠城。個性的なメンバーはかつての西鉄ライオンズを彷彿させた。

 「タイポグラフィ演習」では、スペーシングが中心だった。
 欧文では、インスタント・レタリング(通称インレタ)を使ってのスペーシングだった。インレタというのは、文字が印刷された転写フィルムである。転写したい文字を先端が球形になった用具で擦って転写する。
 和文のインレタは少なかったので、コピーを切り抜いて、ペーパー・セメントで切り貼りしていた。このころコピー機が一般的になり、大学の前にあったチトセヤ画材がコピー機を入れたのでよく利用していたものだ。

 パ・リーグは1973年から前期と後期にわけて、前期優勝チームと後期優勝チームが日本シリーズ出場をかけてプレイ・オフをおこなっていた。前期は阪急ブレーブスに優勝をさらわれたものの、太平洋クラブ・ライオンズは2位に入った。
 太平洋クラブ・ライオンズのユニフォームは派手だった。それまではホーム用のユニフォームは白、ビジター用はグレーというのが慣例であった。太平洋クラブはそれをくつがえした。ビジター用の赤と青の原色をふんだんに使ったユニフォームで、大きな話題を呼んだものだった。
 この年、セ・リーグでは「赤へル軍団」こと広島カープが旋風を巻き起こしていた。その後の各球団のビジター用ユニフォームのカラー化の先鞭をつけたのは太平洋クラブ・ライオンズだったのである。
 10月10日にペナント・レースは終わった。後期は4位におわったが通算で3位にはいり、初のAクラス入りとなった。投げてはエース東尾が23勝を挙げて初の最多勝利投手となり、打つ方も土井が34ホーマーで初の本塁打王に輝き、白も打率3割1分9厘で首位打者を獲得した。

 ぼくたちはこの年から「七味」という名のグループ活動をはじめていた。自主勉強会と、年1回のグループ展が活動の中心だった。自主勉強会は、毎週1回メンバーのアパートを巡回し、各自の研究テーマを発表するという方法で進められた。それぞれの個性を大切にしようということで、「七味」と名付けられた。
 ぼくのテーマは、文字の歴史、生活と文字、活字書体の設計といった内容だった。ぼくひとりが日本語の文字について勉強していたのだ。「七味」の自主勉強会におけるぼくのおもなテーマはきわめて地味だった。
 第1回『七味展』は、1975年10月13日から18日まで、福岡・新出光サロンで催された。このときのぼくには、活字書体設計をするという発想がなかった。
 太平洋クラブ・ライオンズは、さらにチームを飛躍させるべくシーズン終了後に江藤監督を解任し、大リーグの超大物監督であるレオ・ドローチャー氏を監督に招聘した。1974年には大リーグの本塁打王であるフランク・ハワード選手を鳴り物入りで迎えたものの、左ヒザの故障のために開幕戦の1試合2打席だけで帰国したというにがい記憶がある。にもかかわらず、またも大物招聘にうごいたのだ。
 案の上、である。翌年の開幕直前に健康上の理由により契約を破棄、一度も来日することなくドローチャー監督は幻に終わったのだ。
 「どんたく打線」といわれるほど豪快だった太平洋クラブライオンズ。その夢も1年で終わった。ドローチャー監督が幻となったため鬼頭政一ヘッドコーチを監督に昇格させ、ゴタゴタが続いた気分を一新するためにユニフォームもワインカラーを主体としたものになった。胸マークの代わりに背番号を胸に大きくつけたアメフト・スタイルはいかにも奇抜だった。
 しかしながら加藤初を読売ジャイアンツに放出したツケが大きく響いたのか、ルーキー古賀正明の台頭にもかかわらず4年ぶりの最下位に沈んだ。そんな中で吉岡悟が首位打者になり、大田卓司も大活躍して最優秀指名打者に選ばれた。3年目の鈴木治彦も、規定打席不足ながら吉岡を上回る高打率を記録している。
 太平洋クラブライオンズの経営状態は苦しく厳しいものだったが、1974年には若手選手をアメリカに野球留学させるなど、チームの将来を視野に入れることも忘れてはなかった。そのメンバーには、のちに主力選手となる真弓明信、若菜嘉晴も含まれていた。

 鋳造活字製造の工程を要約してみると、
@原字制作 2インチ角(紙 正向き)
Aパターン原図(亜鉛凹版 正向き)
B活字彫刻母型製造(指定ポイント 正向き) 
C活字鋳造(指定ポイント 裏向き)


このうちAからCは専門的な機械と技術が必要である。当面は「@原字制作 2インチ角(紙 正向き)」の工程を、「貘1973」で追試してみることにした。
 まず、方眼紙に鉛筆で下書きをする。インチ・ピッチの方眼紙が手元になかったので、1ミリメートル・ピッチの方眼紙を使い、近似値の5センチ・メートルをボディ・サイズとした。ノートにスケッチした和字書体を見ながら、アウトラインで描いていった。

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●「貘1973」の下書き(金属活字用)

 ある書物に「以前はトレシング・ペーパーに描いた」と書いてあったので、トレシング・ペーパーで再現してみようと思った。下書きの方眼紙の上に、トレシング・ペーパーを置いて、墨入れしていった。修整しないというつもりで墨入れしたので緊張した。それでもはみ出してしまったので、そこだけ削り取った。

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●「貘1973」の原字シート(金属活字用)

 ぼくの大学生活4年間は太平洋クラブライオンズの4年間とかさなる。ライオンズは親会社がある他チームとは違って、中村長芳オーナー個人が所有する「福岡野球株式会社」として運営されていたが、そのスポンサーが太平洋クラブからクラウンライターに変わった。いわゆる命名権を売却していたのである。
 1977年3月にぼくは大学を卒業し、4月からは埼玉県和光市のアパートに住むようになった。首都圏ではラジオでも中継はなかったが、それでもひきつづいてクラウンライター・ライオンズを応援し続けていた。1978年には根本陸夫が監督に就任し、若手の真弓明信、若菜嘉晴、立花義家らを積極的に起用していた。
 1978年のシーズン・オフに国土計画に売却され、西武ライオンズとなった。本拠地も所沢市に移ったので、ときどきは西武球場に足を運ぶようになった。福岡では現在は「福岡ソフトバンクホークス」が人気である。しかしながらぼくはあいかわらず埼玉西武ライオンズに太平洋クラブ・ライオンズの夢を追い求めている。

2013年07月15日

[福岡の夢]1976年:「貘」の鋳造活字

 大学時代の帰省時には、大西商店印刷部という印刷会社でアルバイトをした。アルバイトだったが、当時の大西社長の好意で、文選・植字から、印刷、製本まで、ひととおりのことを体験させてもらった。大西商店印刷部には写真植字機はなく、金属活字による印刷が主だった。
 実際のアルバイトとして作業したのは、こまごまとした雑用ばかりだった。大西社長にくっついて、「これやって!」「終わったら、つぎこれね!」の繰り返しだったので、どのようなことがあったのかははっきり覚えていない。

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●大西商店印刷部(撮影:2011年)
1976年当時とは大きく変わっている。


 1976年の春休みには、『備前焼の鑑賞』(日幡光顕著、備前焼鑑賞会、1976年)の製作を手伝った。といっても、丁合とか(手作業だった)、封筒に入れる作業とか、簡単なことだけだったが、今もまるで自分の担当した書物のように愛おしく思えるのである。

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●『備前焼の鑑賞』

 とくに印象に残っているのは、活字を鍋で煮て、活字合金の延べ棒をつくるという作業であった。まさに活字は生きていると思った。一歩間違えば大やけどをするかもしれないので、緊張しながら作業していたのを思い出す。
 印刷会社なので、活字をつくる工程までは体験できなかったけど、この「活字鍋」の体験が、金属活字への興味をますます高めたのである。『書体デザイン』(桑山弥三郎著、グラフィック社、1972年)には、株式会社モトヤでの活字製造工程が書かれていた。

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●『書体デザイン』

 その株式会社モトヤも、1996年7月31日をもって、創業以来75年間にわたって製造してきた金属活字から撤退している。なお、株式会社モトヤ大阪本社2階において、「活字資料館」として、金属活字の製造や組版作業の過程を常設展示している。

 のちにぼくが強く影響を受けることになる橋本和夫氏は、若い頃に金属活字での活字書体設計を経験されている。『文字の巨人』のインタビュー(字游工房ウェブサイト)で、つぎのように述べている。

「モトヤで僕がラッキーだったと思うのは、文字デザインの作業をしながら、写真製版の作業も担当したことですね。母型作製のベントン彫刻機では、原字を書いて、それを亜鉛板の凹版にして、その凹版をもとに文字を探って、縮小された文字が彫刻されます。こうしてできたものが母型です(母型は活字鋳造の親になる)。この凹版を作製するのが、写真製版の技術です。
 つまり、紙に書いたものを写真に撮って、それを亜鉛板に焼き付けて、腐食をし凹字にして、そしてベントンで彫刻するというプロセスです。パターンと呼んでいましたが、原字作業をやりながら、僕はその写真製版も担当していたんです。
 写真製版をやるとね、原字のこういうところはもっと太めておかないとダメだとか、こういうところは細めておかないと写真製版で太まってしまうとかいうことが、よくわかってくるんです。要するに、原字をデザインするノウハウというか、文字の仕様に掲げられていない、ひとつの製品になるための工程上の許容誤差など、それらを学びましたね。活字は原字をそのまま再現することが前提だけれども、製造工程上、どうしても忠実に再現できない部分が現実にはあり、実際に活字になるまでのことを考えながら、文字はデザインしなくてはならないことを、僕はそこで習ったような気がします。原字をデザインするということは、周辺技術の認識も必要とされる大変な作業なのだとも再認識しましたね」


 第2回「七味展」は、10月18日から23日まで、福岡・新出光サロンで催された。このときぼくは不本意な作品を出品した。このときは考えもしなかったが、「鋳造活字」での印刷物という手もあったなと、40年近く経って思っている。

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●第2回「七味展」

 12月には、九州産業大学の近くにあった喫茶店「貘」のオーナーが、親不孝通りに「屋根裏貘」を開店した。併設の「アートスペース貘」は、5.5坪の小さなギャラリーだが、全面が真っ白で、毎年、年末になると壁を白に塗り新しい年を迎えるという。芸術学部の教員、OBはもちろん、学生にとっても発表の場となっていった。

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●「屋根裏貘」(撮影:1995年)

 いつの日にか「貘1973」の和字書体1フォントを鋳造活字で製作したいとも考えている。