2013年05月10日

[コンペは踊ろう]第2章 横組み、縦組み(4)

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●第11回石井賞創作タイプフェイス・コンテスト応募書体 1990年

 第11回(1990年)石井賞創作タイプフェイス・コンテストには、小瀬甫庵(1564-1640)によって著述された織田信長の一代記である『信長記』をもとに制作した活字書体を応募した。第10回書体は和様体の井筒屋本『おくのほそ道』を参考にしたが、第11回書体は対照的に漢字カタカナ交じり文の甫庵版『信長記』を参考にしたのである。

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●『信長記』

◆ 書風
 応募のときに添付する制作意図には、まず書風について書いている。

 人間的な暖かさ、温もりが求められ、手書き風の書体が人気を呼んでいる中で、緊張感とか、精悍さといったものを見失っている。本当の優しさは、厳しさの中にある。厳しさの中に優しさが潜んでいるというイメージを表現できないかと考え、制作したのがこの書体である。


 第11回書体は、手書き風書体がコンテストの上位を占めているという傾向に対し、漢字カタカナ交じり文の甫庵版『信長記』に感じた「厳しさの中に優しさが潜んでいるというイメージ」を活字書体として再生させようとしたものである。
 甫庵版『信長記』は書としての評価はさほど高くないかもしれないが、荒々しさ、精悍さを感じる。ひらがな文に女性的な流麗さを感じ、漢字カタカナ交じり文に男性的な厳しさがあるように思う。
 新しいものを考える時、経験が邪魔をすることがある。ひとつのイメージを執拗に追い続ける姿勢も素晴らしいことだと思うが、私は常に新しい可能性を求めていきたいと思っていた。

◆筆法と結法
 つづいて感覚的ではあるが、筆法と結法について簡単にしるしている。

 直線的だが筆勢を感じさせるエレメント。超長体のくせに自然な伸びやかさを持ったフォルム。対立するはずの要素を消化して、宋朝風だがコンテンポラリーな、伝統と斬新が程良くミックスされたインパクトの強い書体をめざした。


 エレメント、フォルムということばを漢字や和字で適用するには無理があるかもしれない。筆法、結法というべきだったであろう。筆法はひとつひとつの点画をどう書くかということであり、結法は点画を組み合わせてひとつの完全な美しい形を整えることである。

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●劉元起版『漢書』

 日本語は、幾つかの文字体系で構成されている。和欧混植ということばとともに、和漢混植ということが成り立つ。日本語の活字書体は、和字と漢字、和字と欧字をよく調和させなければならない。
 漢字は劉元起版『漢書』などに見られる割注の字様を参考にすることにした。「超長体」「宋朝風」というのはこの割注の字様を指している。割注はもともと長体なので、磔法を強調するのに好都合だったのである。

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●白隠慧鶴「いろは歌」(1734年、永青文庫所蔵)

 ひらがなの筆法は白隠「いろは歌」にみられる「まわし」の転折化を基本にした。白隠「いろは歌」は、平安古筆の王朝風から脱しており、禅の精神があふれた書として高く評価されている。和字は流麗でやわらかいように思いがちであるが、骨格はシャープな切れ味をもっている。しかも面をかえしながらの直線の連続なのである。
 これは「まわし」や「あたり」にも基本的な考え方となっている。この考え方を強調して直線的にしたが、竹を割ったようにしなやかなイメージになった。この書体ではかなり極端に直線的にしたが、精悍さ、厳しさを主張しつつ、肉筆の暖かさを無くさないようにしようということである。
 文字のふところを狭くすると引き締まった感じになるし、広くすると明るくおおらかな感じになる。この書体では、白隠「いろは歌」のように逆三角形をベースにすることにより引き締まった感じになった。
「ふところ」を引き締めながら、白隠「いろは歌」をさらに誇張してラインの効果を出すために長体でデザインした。これにより右払いの伸びやかさを強調することができた。

◆章法
 長体に作られているこの書体では基本字面を半角に設定した。基本字面よりも張り出す磔法などを含めた文字全体の調和を保つように設計した。イメージが強烈なだけに作為的になってしまわないように、自然に縦組でのスピード感が出てくるように留意した。

 この書体を第11回石井賞創作タイプフェイス・コンテストに出品したが、残念ながら2位に終わった。

「今宋」制作については、「文字の厨房」にて。

2013年05月15日

[航海誌]第11回 ゴカールE

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●ゴカールE 写真植字機用文字盤

 株式会社写研では、1年おきに「写研フェア」というイベントを開催し、そこで新しい機種や書体を発表するのが恒例となっていた。1983年にはゴナ・ファミリーやボカッシイなどが発表されたが、1985年は創業60周年にあたるということで、例年よりさらに多くの新書体を発表することが期待されていた。本蘭明朝ファミリー、紅蘭楷書ファミリーをはじめ、数多くの新書体の発表が計画されていたが、まだまだ足りないといわれた。
 そこで私に白羽の矢が立った。「何か考えろ」という漠然とした指示である。何か…というのがいちばん困る。いろいろ描いてみるもののピンとこない。行き詰まっていた。ふと、ある女子社員が書いたレポートが目に留まった。これをもとにしたら面白いかもしれないと思った。
 当時の若い女性の手書き文字「マル字」がブームになり、写研で「ルリール」が発売されたのは1986年である。さらに同年「第1回マル字50音コンテスト」を実施し、第1位となった「イクール」が発売された。1987年に2位の「エツール」と3位の「ヨシール」、「第2回マル字50音コンテスト」第1位の「ノリール」が発売された。私はそれよりも前に、若い女性の手書き文字に注目していたということである。
 一方、1984年1月30日−2月4日に、銀座のギャラリー・オカベで開催された「タイポパワーズ1984展」で発表された佐藤豊氏の「タイプラボ・ゴシック」と鴨野実氏の「ロゴライン」は、いずれも写研のゴナ・ファミリーとの混植を前提としたものであった。それぞれ写研での販売が提案されたそうだが、その後のいきさつについては知らない。いずれにせよ、「タイプラボ・ゴシック」と「ロゴライン」をきっかけにして、ゴナ・ファミリーと混植する和字書体が広く求められるようになっていた。
 そこで私は、ゴナEと混植する独立系の和字書体として試作することにした。その女子社員の承諾を得て、レポートからひらがなとカタカナを抜き出し、ゴナEにあわせながら、和字書体すべての字種を試作した。テスト文字盤を作成してもらい、社内の企画会議に提出された。
 もともとのきっかけは若い女性の手書き文字であり、実際にはゴナEと混植することによってバリエーションを広げるための書体であった。「POP書体」とされることがあるが、制作時においては「POP書体」を意識したということはなかった。
 この書体は企画会議において、商品化が決定された。しかしながら、ある社内事情によって、私の手でまとめることができなかった。最終的な書体制作は、別の社員にゆだねざるを得なかったのは残念なことであった。そうして完成した書体が一部の字種をのぞいて全体的には私が試作したままのイメージだったのが救いであった。
 この書体は「ゴカールE」と名付けられた。さらに、その社員によって「ゴカールU」が制作された。まずは、ゴナ・ファミリーで先行して発売されていたゴナEとゴナUに対応しておこうということだったと思う。

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 ゴナ・ファミリーが広く使用されるようになり、さらにゴナHが発売されて全ウエイトがそろったことから、つぎの1987年の「写研フェア」では、ゴカール・ファミリーを発表しようということになった。ある社内事情によって、この作業も別の社員に任せることになった。当時はまだまだフィルム原字での作業が中心であった。ゴカールEもゴカールUもフィルム原字で制作されていた。つぎに制作されることになったゴカールLもフィルム原字で制作された。
 写研ではイカルス・システムの導入により、ファミリー化が促進されるようになっていた。その第1弾がゴナ・ファミリーであり、第2弾が本蘭明朝ファミリーであった。そしてゴカール・ファミリーもイカルス・システムをもちいてファミリー化をはかることになった。
 ゴカールL、E、Uの3書体は、すべてのキャラクターが大きく拡大化され、青焼きがとられた。青焼き上に手作業でポイントをマーキングしていくのである。そのマーキングしたポイントをデジタイザーというツールで記憶させることによりデジタル化された。私もこの作業をさせてもらったことがあるが、今考えると、デジタル化といいながらも、まことにアナログ的であった。
 デジタル化されると、ゴカールEとゴカールLの補間でゴカールM、D、DB、Bを、ゴカールEとゴカールUの補間でゴカールHを作成し、この5書体がフィルムで出力されたのである。まだワークステーションで直接修整するという方法はとられていなかった。イカルス・システムは補助的に使われていたのである。ワークステーション自体がそれほど多くなく、担当部署以外は触れることができなかった時代だった。
 フィルムで出力された5書体は、その社員によって、フィルム原字として完成された。フィルム原字から文字盤が作られ、フィルム原字をスキャンしてデジタル・フォントが作られた。イカルスのデータは中間的なものでしかなかった。当時としてはそれが最良の方法だったのである。

 それから数年後、私はゴカール・ファミリーの総合書体化を企画した。まず、ゴカールEの書体見本の12文字と、簡単な仕様書を作成したと記憶している。ユーザーから要望があったわけではなく、ある社内事情によるものである。この提案も採用になり、ゴカールEの制作が動き始めた。私が関与したのはここまでである。
 私が写研を退社したあとに、総合書体としてのゴカールE、H、Uが発売された。私が実際に関わったのは全体のごく一部なのであるが、総合書体としてもそのきっかけを作ったということで感慨深いことであった。

2013年05月19日

[航海誌]第12回 艶L

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●艶L 写真植字機用文字盤

 正木香子氏の人気エッセイ・シリーズ「文字の食卓」で「艶」を取り上げていただき、「第24回 蜜の文字」として書いていただいている。その中に次のような文章があった。

 数々の賞を受賞し、フリーデザイナーとして独立した現在もデジタルフォントの世界で精力的に活動している今田氏にとって、代表作というわけではないかもしれないけれど、私はこの書体がとても好きだ。
 言葉の襞に隠れているものを、こんなにも美しく、誰も思いつかなかったかたちにしてしまうなんてぞくぞくする。


 リョービの「小町・良寛」が売れたので写研が対抗としてあわてて出した急ごしらえの書体だとか、「小町・良寛」のような伝統的な視点がなく創作性を強調しただけの風変わりな書体だとか、あげくに「て」は奇をてらいすぎだ…というようなことを伝え聞いたことがあった。アンチ写研の人だったのだろうが、制作者としては悔しい思いが残っていた。それだけにこのエッセイを読んだとき、なにか胸のつかえがとれたようなすっきりした思いがした。

 与謝野晶子と藤原定家の書写資料をもとに活字書体化するという、この企画の立案は橋本和夫氏によるものである。書体名がつけられるまで社内では仮称で呼ばれていた。当初は晶子がな、定家がなと呼ばれていたが、しだいにAかな、Tかなと呼ばれるようになった。
 なぜ、橋本和夫氏自身が制作されなかったのかは聞いていない。橋本氏はそのころ「紅蘭楷書ファミリー」の和字書体を設計されていたので、私にまわってきたのだと想像している。鈴木勉氏は「本蘭明朝ファミリー」の和字書体を担当されていたと思う。「紅蘭楷書ファミリー」と「本蘭明朝ファミリー」は、どちらも1980年代の写研を代表する書体である。
 「ゴカールE」の制作を別の社員にゆだねて、私が取り組んだ書体がAかな、Tかなである。確かに「小町・良寛」に対抗するというもくろみがあったのかもしれないが、私はそういうことをあまり意識してはいなかった。橋本氏から私に手渡された書物のなかで、付箋がつけられている書写資料をベースにした活字書体を試作するということだけだった。
 手渡された書物のうちの一冊が『書体字典かな篇』(野ばら社編集部企画編集、野ばら社、1983年改訂発行)である。名筆として紹介されていた与謝野晶子の「源氏物語礼讃 明星抄」を参考にして試作したのがAかな(晶子がな)である。創業60周年にあたる1985年の「写研フェア」に向けての企画会議に提案し、Tかな(定家がな)とともに採用されたのである。まずAかなを先に制作することになった。

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●与謝野晶子の「源氏物語礼讃 明星抄」

 与謝野晶子の「源氏物語礼讃 明星抄」は、与謝野晶子による源氏物語の各帖を詠み込んだ54首からなる和歌の連作で、与謝野晶子自身が書写したものである。『書体字典かな篇』には、54首すべてが掲載されていた。細筆で軽やかに書かれている。「文字の食卓」で書かれたつぎのような印象は、与謝野晶子の書風から醸し出されたものかもしれない。

 子どものころ、ギャグ漫画のいわゆるお色気シーンでこの文字をみたとき、なんていろっぽい文字だろう、と思った。べったりと甘く、滑稽で、哀しい。描かれた女の太腿をみているようだ。
 日本語のかな独特のいろっぽさだと思う。露骨に生々しい言葉よりも、他の書体ならば何とも思わないような、普段よく口にしている言葉こそ、色香がより匂い立つ。


 Aかなは石井細明朝体(漢字)と組み合わせて使うように設計することにした。この時点では、写研で一番普及していた書体は石井細明朝体だった。本蘭明朝Lは存在していたが、ファミリー化をすすめているところだった。雰囲気としても石井細明朝体のほうがマッチするのではないかと思われていた。
 こういった書写をベースにした書体設計の場合、同じキャラクターでも同一ということはない。どれを選ぶかで全体的なイメージは異なってしまう。全体的なイメージを把握し、何度も入れ替えながら、慎重に選択していったのである。
 筆圧が軽いという特徴を生かすため、「あ」「の」なども途中で切れた書き方にした。「て」は悩んだ末、一筆のものと、途中で離れた異体字にみえるものを残した。橋本氏は後者を即決した。違和感をおぼえる人もいるだろうが、ふりかえればこれしかないと思っている。
 Aかなの制作方法は、「かな民友明朝」などのように「源氏物語礼讃 明星抄」から全キャラクターを抜きだして、48mmの原字サイズに拡大して、そこに直接墨を入れるという手法はとらなかった。全キャラクターは抜きだしたが、下敷きにするのではなく、まったく新規に書き起こしたのである。石井細明朝体に合わせることを前提にしたので、そうする手法が適していると判断したのだ。
 仮に「源氏物語礼讃 明星抄」から数文字を抜き出して拡大し、完成したAかなと重ね合わせても一致することはないだろう。だがAかなは確かに「源氏物語礼讃 明星抄」の文字の雰囲気を受け継いでいるのであり、もし創作性と言われるならば、与謝野晶子の個性によるものだと思う。
 Aかなは、「艶」と命名された。与謝野晶子の書写資料を参考にしたとはいえ与謝野晶子の筆跡そのものではないということで、与謝野晶子にちなんだ書体名は付けられなかった。当時は著作権が存続していたということもあり、さらには近代の著名な文人に対する配慮もあったのだろう。

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「源氏物語礼讃 明星抄」の太さは石井細明朝体にちかい。当初から、ファミリー化を前提としたため、石井中明朝体にあわせて「艶M」を、石井太明朝体にあわせて「艶B」を、石井特太明朝体にあわせて「艶E」を制作しなければならなかった。
 ゴシック体系やアンチック体系とはことなり、明朝体や楷書体と組み合わせるための和字書体は、毛筆の抑揚により太いところと細いところができる。ウエイトの太い書体は、太いところと細いところの差が大きくなるため、細い書体より太い書体のほうが圧倒的に難しい。
 とくに「源氏物語礼讃 明星抄」の場合には細筆でさらさらと書いたものである。それを太くすること自体が不自然なことなのだ。書くことができないのである。太い書体で、途中で切れた書き方をするということはあり得ないことだ。それでも書くことをイメージしたときに自然に流れてみえるように調整していった。「艶」のファミリー化には、そういう葛藤があった。
 さらに、本文用としてやや小振りなものも欲しいという意見があり、それぞれのウエイトで「艶小がな」も制作した。もちろんただ縮小しただけではなく、さらに伸びやかのなるように調整している。「艶小がな」の制作により、いままでの「艶」は「艶大かな」となった。こうして「艶大かな」4書体、「艶小がな」4書体の、計8書体になるファミリーとして完成したのである。

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 ある日のこと。新潟県三島郡出雲崎町を訪ねたとき、観光パンフレットに艶Lが使われているのを見つけた。私は溜飲を下げたのである。

※結局Tかなは、うやむやになって発売されることはなかった。

2013年05月29日

[航海誌]第13回 平成丸ゴシック体W4

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●平成丸ゴシック体W4(和字)

 1988年9月に、旧通産省工業技術院電気・情報規格課の主導により、文字フォント開発・普及センターが設立された。それまではコンピュータ関連の機器メーカーなどは高品位の原字が欲しくても容易に入手できないという状況だったのだ。
 大手コンピュータ・メーカー、大手電子機器メーカー、大手印刷企業、写植機メーカーなど25社による発起人会が開かれ、財団法人日本規格協会に属す運営委員会が設立された。運営委員会のもとにフォント開発・普及のために開発会員51社が参加し、開発委員会が発足した。
 1989年にスタートした第1期フォント開発事業は、「明朝体」と「ゴシック体」の開発が計画された。そこで明朝体とゴシック体それぞれのコンペティションを行うことになり、フォントメーカーを広く公募することになった。
 第1次の明朝体コンペティションは、リョービイマジクスの応募した新しい明朝体が最多得票を得て採用となり、「平成明朝体」と名づけられた。ゴシック体コンペティションでは、同じように日本タイプライタが応募した新しいゴシック体が最多得票を得て採用となり、「平成ゴシック体W5」と名づけられた。
 この「平成ゴシック体W5」は、「平成明朝体W3」に整合性のあるゴシック体というのが応募のときの条件であった。すなわち、「平成明朝体W3」はリョービイマジクスが、「平成ゴシック体W5」は日本タイプライタが制作したのであるが、グランド・ファミリーのような位置づけであった。

 「文字フォント開発・普及センター」の第2期開発フォントとして、「平成丸ゴシック体」が計画された。その制作が株式会社写研に委託されたのである。このことについて、元リョービイマジクス情報システム部長の澤田善彦氏は、『平成フォント誕生物語─フォント千夜一夜物語(15)』のなかで、つぎのように述べている。

 第1期開発の「平成明朝体」と「平成角ゴシック体」は、デザイン・コンペにより開発委託先が決定されたが、何故か「平成丸ゴシック体」についてはコンペなしで決められた。フォントセンター側では、フォント開発に経験豊富な且ハ研を委託先と選び交渉したようである。その選択に、何か不純なものを感じた開発委員は少なくなかったようである。

 そのいきさつについて、私は聞いていない。

 1991年、橋本和夫氏を中心として、「平成丸ゴシック体W4」の開発がスタートとした。平成明朝体W3、平成ゴシック体W5との整合性は求められなかった。まず、社内において何点か試作し、開発委員会で検討された。私が試作したものは、より丸みを帯びて抱懐を締めた書体だったので採用されなかった。
 開発委員会では、人気の高かった写研の「ナール」のような書体を希望する委員が多かったようだ。写研としては「ナール」と同じような書体を出すわけにはいかなかった。このころ「本蘭ゴシック」が橋本氏によって提案されており(本蘭ゴシック・ファミリーは2000年に発売されるが、橋本氏は関係していない)、それとの差異をどうするかが検討されたと記憶している。
 「平成丸ゴシック体W4」の漢字書体は、橋本氏の指揮の下で数名のスタッフが制作にあたった。私は「平成丸ゴシック体W4」に関係することはないと思っていたのだが、橋本氏から和字書体を設計するように指示があった。欧字書体は半田哲也氏が担当した。
 和字書体は、「平成丸ゴシック体W4」全体のプロデューサーである橋本氏にチェックしてもらいながらではあったが、私が新しく制作した。当時はまだフィルム原字であった。橋本氏の的確な指摘と納得のできる説明により、なんとか完成することができた。

 後日、文字フォント開発・普及センターの主催で、橋本氏による「平成丸ゴシック体W4」のレクチャーが開催された。直接いろいろと話を聞いている我々制作者でも新鮮でわかりやすい内容で、参加者にも好評だったようである。

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●平成丸ゴシック体W4 組み見本(アドビシステムズ)

 平成丸ゴシック体W4は写研からは発売されていないが、数社から発売されている。ただ商品化の方法が異なっているので、それぞれの会社でデザインに違いがあるようである。とくに和字書体には注意しなければならないと思う。

2013年06月14日

[航海誌]第15回 いまりゅう

 私が個人として第10回石井賞創作タイプフェイスコンテストに出品した書体を「第10回石井賞1位書体」、それをもとに写研で制作した書体を「いまりゅうD」ということにする。「いまりゅう」は「今流」だそうだ(今龍ではなく)。命名者の真意はわからないが、世尊寺流とか青蓮院流とかの「流」だと解釈している。

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●「いまりゅうD」のライン・システム

 「いまりゅうD」は横組み専用である。縦組み用の約物などは制作していない。横組み専用書体としてはすでにスーシャが発売されていたので、文字盤の配列はスーシャに倣った。スーシャは、鈴木勉氏が第三回石井賞創作タイプフェイスコンテスト(1974年)で第1位を獲得した書体をベースに、スーシャL、スーシャBとして写研から1979年に発売された横組み専用書体である。
 鈴木勉氏は1949年横浜生まれ。1969年に東京デザイナー学院を卒業し、写研(当時は「写真植字機研究所」)に入社。1972年、第2回石井賞創作タイプフェイスコンテスト第1位。1974年の第3回石井賞創作タイプフェイスコンテストでは、2回連続の第1位を獲得。第2回の書体は「スーボ」として、第3回の書体はのちの「スーシャ」として写植文字盤が発売された。1989年に写研を退職し有限会社「字游工房」設立。1998年に49歳で死去された。
 スーシャについては『鈴木勉の本』でつぎのようなエピソードが紹介されている。

 書体デザイン界の高倉健を自任し、寡黙で渋い男を標榜していた鈴木は、みんなに「スーボ」のようだと言われることが不満だったようだ。そのイメージを一掃するかのように、彼はその二年後、贅肉を削ぎ落とした繊細で都会的な横組み専用書体の「スーシャ」を制作したのである。本人はスーシャこそ自分であると思いたがっていた節がある。

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●「いまりゅうD」の仮想ボディ

 漢字が全角でないという、当時としては画期的な書体である。漢字書体の仮想ボディを 「第10回石井賞1位書体」では13/16emで設定していた。そのまま進めていたところ、写研の石井裕子社長より「(同じQ数で並べたときに)他の書体より小さく見える」という指摘があり、部内で検討した結果、「いまりゅうD」では、少し大きくして14/16emに変更することになった。図のピンクのところが「いまりゅうD」の仮想ボディである。これにより、和字が下側に張り出すのは3/16emから2/16emになった。2/3の長さしかとれなくなったのだ。
 漢字書体での、見た目の大きさは近づいたが、商品としての使いやすさを優先したばかりに、「第10回石井賞1位書体」の特徴である和字(かな)書体の伸びやかさが失われたのは否めないことであった。杉浦康平氏の審査評がずっと気になっていた。

石井賞を受賞した今田氏の作品は、「手」の動きを生かし、アルファベットのアッセンダー/ディセンダーに似た、視線の律動快感を生みだした。文字は音(ノイズ)やリズム、さらにほどよい冗長度によって魅力を加える。文字が秘める音楽的な力を巧みに引き出している。

 それでも、別の審査員から挙げられた「漢字の大きさを少し押さえ過ぎた」などの指摘を踏まえて、さまざまな試作を重ねながら書体見本を作成した。とくに「第10回石井賞1位書体」の掠法はトメになっている点について、「いまりゅうD」ではハライにした。そうすることによって、できるだけ伸びやかさを失わないようにした。
 漢字書体は私と5名の社員が制作にあたった。個人差が出やすい書体だったが、作字合成法を駆使してまとめていった。メインプレートの原字から、第1外字文字盤(DRYU S1−S7)、汎用外字文字盤(DRYU HG1−2)、正字文字盤(SDRYU B1−2)の原字まで、ほぼ同じメンバーで制作することができたのはよかった。

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●「いまりゅうD」の書体見本

 欧字(ラテン文字)はもちろん、和字(かな)もプロポーショナル先行で制作した。つまり欧字書体の欧文文字盤(E208-34)と和字書体のつめ組用かな文字盤(TDRYU Y1−2)とを制作してから、メインプレートに収録される欧字書体と和字書体の原字を制作することにしたのだ。
 和字書体をプロポーショナルから制作したのは写研では「いまりゅうD」が初めてである。16ユニット・システムという制約はあったが、これは画期的なことなのである。ある審査員から挙げられた「和字のグループ分けに無理が感じられるところがある」などの指摘を踏まえて、また2/16emになった張り出し部分を有効に利用するように、さまざまな試行錯誤をくりかえしながらまとめていった。
 欧文文字盤とつめ組用かな文字盤、さらに専用記号文字盤(DRYU-SB)の原字は、私がひとりで担当した。
 こうしてメインプレート、第一外字文字盤、汎用外字文字盤、欧文文字盤、つめ組用かな文字盤、専用記号文字盤のすべてが完成し、1990年10月に発売された。

 これで打ち上げとなるはずであったが、前代未聞の書体である「いまりゅうD」には大きな試練が待ち受けていた。
 漢字書体は、当然14/16em送りに設定して使用するのだが、欧文文字盤やつめ組み用かな文字盤のように自動送り機能に対応した文字盤を使用する場合には一旦14/16em送りを解除してからでないと自動送り機能が使えなかった。使いづらいとのクレームが殺到したそうである。
 石井社長の指示で、原字の問題として対処することになり、14/16emを基準にした新しい16ユニット・システムに設計し直さなければならなくなった。これにより、和字書体、欧字書体および記号関係は全面的に作り直しになった。この結果、欧文文字盤、つめ組み用かな文字盤などでも、あらかじめ14/16em送りに設定しておいてからでないと使用できなくなった。
 修整後のメインプレート、欧文文字盤、つめ組み用かな文字盤および専用記号文字盤は、同年12月にようやく販売が開始された。見た目にはあまり変わりがないようで、(a)という改訂コードが付けられているが、実際には大幅な設計変更だったのである。

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●組み見本:「方丈記」より

 「いまりゅうD」は横組み専用であり、当時としては斬新すぎた書体であったためか、大々的なヒットにはならなかった。それでも目の肥えたデザイナーからの支持を得て、書籍のカバーなどで使用されている。

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●使用例:『続プログラマの妻たち』(ビレッジセンター編、株式会社ビレッジセンター出版局、1993年)

※「いまりゅうD」のメインプレート、第1外字文字盤(DRYU S1−S7)、汎用外字文字盤(DRYU HG1−2)、正字文字盤(SDRYU B1−2)、欧文文字盤(E208-34)、つめ組用かな文字盤(TDRYU Y1−2)、専用記号文字盤(DRYU-SB)を欣喜堂で保管している。

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