2013年04月11日

[航海誌] 第4回 石井中ゴシック体(漢字)

 新入社員の研修でもうひとつ実習したのは石井太ゴシック体である。書体見本12字に合わせて、この8字を練習した。この8字はすでにあるのだが、もちろんそれを見ることはできない。同じ書体を、同じ書体見本に合わせて、新入社員3名が同じ文字を描く。最初は石井太ゴシック体とは違うものになってしまうが、いろいろ指導をうけていくうちに、石井太ゴシック体となっていくのである。

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●新人研修で練習した石井太ゴシック体

 『広漢和辞典』のための石井細明朝体の制作が終わると、私は石井中ゴシック体の修整作業のチームに入った。石井中ゴシック体という書体の名称は変わらないが、文字盤コードではMGからMG-Aへのリニューアルである。石井太ゴシック体はすでにBGからBG-Aへの修整は終わっていたと思う。欧字書体で言えば、「○○ネクスト」、「○○ノヴァ」、「○○ネオ」とするところなのだろう。活字書体は、その時代や技術の変化に対応して、常にリニューアルしていかなければならないものなのだ。
 石井中ゴシック体は、写真植字機研究所社長の石井茂吉氏が昭和29年に完成させた書体である。およそ四半世紀を経てのリニューアルである。この書体について、『文字に生きる<写研五〇年の歩み』(文字に生きる編纂委員会、株式会社写研、1975年)に次のように書かれている。

細明朝が辞典や書籍に使われるようになると、小見出しや本文中の強調部分に使用するゴシック体が戦前に制作された太ゴシック体では太くて強すぎて、細明朝体に合わない。ユーザーからも印刷効果の上から太ゴシックより細いゴシックの要望が多くなった。


この中ゴシックは、縦・横線が太ゴシックの約4分の3の太さで書かれ書風は太ゴシックと同じであった。組んでみると本文に使われる11級、12級でもつぶれることなく、印刷効果は大変よかった。発売と同時に写真植字機設置の各社がただちに購入し、本文の強調部分や見出しに、それから以後、非常に多く使われ、写真植字独特のものとしてもてはやされた。


 石井中ゴシック体の筆法は、起筆・収筆が大きく喇叭状に開いていることだ。これがなかなかのくせ者で、上下や左右のバランスがくずれるとまっすぐには見えなくなる。その開き具合も画数によって違ってくる。この調整には、溝引きという技法が役に立った。
 道具というものは、自分の使い勝手がよくなるように手を加えて使うものである。まずは溝引定規である。ガラス棒との組合せで、おもにカーブを描くときに重宝するものだ。ちなみに直線部分は、おもに烏口をもちいる。ガラス棒と面相筆とを、箸を持つ要領で固定し、溝引定規の溝に沿わせる。
 溝引定規を回しながらカーブを描くわけだが、慣れれば手放せなくなる。この溝引定規は、裁縫のときに使う竹製の溝が切ってある30cmの定規をもちいる。これを半分に切断して、その両端にビニールテープを巻き付けたり、ゴム板を張り付けたりしていた。空間を作って、こすらないようにする工夫である。

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●当時使用していた書体制作の用具(再現)

 石井中ゴシック体の制作において、とくに難しいのは太さの調整である。同じ書体でも画数によって太さの取り方が変わってくるし、位置によっても違う。石井細明朝体の場合には、横画は原字上で1mmと決まっていたが、横画と豎画ともに調整しなければならない。
 修整には、フィルムでは修整刀をもちいる。かつては、鋸の歯を加工して手作りしていたようだが、私が入社していたころは、スクラッチ・ボードなどに使うカット・ペンを、ペン軸に差し込んで使っていた。これを荒砥石で斜めにし、オイル・ストーンで研いで使っていた。
 修整刀の場合、カーブの修整はフリーでおこなうが、直線の部分はスチールの字消し板をもちいる。字消し板というぐらいで、もともとは文章中の文字を訂正するときに使うものだが、ここでは外形の直線部分を利用していた。
 おもな修整作業は画質をきれいにすることであったから、結法(フォルム)は原字(MG)のままというのが基本だった。それでもアウトラインを書き直すことになるので、簡単な作業でもない。最後に章法、すなわち文字のセンターを決める作業をすることは、どんな書体でも共通している。

 このときは手動機文字盤としてのリニューアルであったが、これがデジタル・タイプ(Cフォント)化されるにあたっては、かなりの作業時間を要しているはずだ。オープン・タイプにすることは、同じデジタル・タイプとはいえ、それほど容易なことではないはずだ。
posted by 今田欣一 at 18:57| 航海誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月05日

[航海誌] 第3回 石井細明朝体(漢字)

 私が株式会社写研に入社したのは1977年4月1日のことだった。
 一週間の新入社員教育期間を終えて、この日から職場に配属された。同じ職場には、私を含めて3人が配属になった。ここでもすぐに仕事につくのではなかった。約2ヶ月間にわたる研修が待っていたのだ。
 その研修で、最初に実習したのは石井細明朝体である。石井細明朝体の書体見本が配られた。この書体見本は仮想ボディ48mmサイズで、基準となる12文字が並べられている。部首、画数などの参考となる代表的な字種である。これを観察して、課題の字種を描いていくのである。この48mmサイズというのは、手動写植機が16Q基準であったために、その倍数で2インチに近いものとして決められたようである。

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●新人研修で練習した石井細明朝体

 石井細明朝体は、写真植字機研究所社長の石井茂吉氏が、3年以上の歳月を要して昭和26年に完成させた書体である。この書体の制作意図については、『文字に生きる<写研五〇年の歩み>』(文字に生きる編纂委員会、株式会社写研、1975年)に次のように書かれている。

石井が作ろうとした新しい明朝体は戦後生まれ変わった日本にふさわしい、清新で、民主主義、自由主義の息吹きにマッチする明るい書体でなければならなかった。戦前に制作された石井中明朝体では、格調の高さが重んじられたのに対して、新しい書体では、戦後の明るい世相を反映する優雅な繊細さが重んじられた。と同時に、戦後、急速に、特に端物印刷にオフセット印刷が導入されてきたので、当然オフセット印刷に向いた書体でなければならなかった。


 私にとってのはじめての実作業というのは、大修館書店から発行される『広漢和辞典』のための石井細明朝体であった。これは『大漢和辞典』用石井細明朝体を改刻するという仕事であった。
 『大漢和辞典』用石井細明朝体は、大修館書店からの依頼によるもので、約5万字を制作している。昭和27年に制作を開始し、昭和35年に完成した。この『大漢和辞典』用の原字制作の労苦などが認められ、石井茂吉氏は昭和35年に「菊池寛賞」を受賞している。
 諸橋轍次著『大漢和辞典』は全13巻の大作であった。この汎用版として『広漢和辞典』が企画されたのだと思う。『広漢和辞典』でも全4巻である。大漢和辞典用の文字盤をそのまま使うのではなく、あらたに制作をし直すことになったようだ。
 おそらく大漢和辞典用の文字盤から拡大したのだろう、48mmサイズになったフィルム原字が渡された。書体制作はフィルム上で行われていた。画質はかなりボロボロで、なるほど改刻が必要だというのも当然だなと納得したものである。その作業は、私を含め入社3年未満の若者数名に託された。

 横線は48mmサイズ原字上で1mmに設定されていた。烏口を使って一発で引いていく。1.05mmでも0.95mmになってもいけない。スケール・ルーペで計測しながら、慎重に太さを合わせた。そして三角定規をあてて水平に引く。今のデジタル環境ではたやすいことが、当時はことのほか難しいことだった。
 石井細明朝体の筆法は、ひとつひとつに毛筆の運筆が考慮に入れられている。側法(点)ひとつとってみても、収筆のときに筆を引いているので、丸ではなく三角おむすびのようになる。このカタチにするのがなかなかできなくて苦労したものだ。
 おもな修整作業は画質をきれいにすることであったから、結法(フォルム)は大漢和辞典用の原字のままというのが基本だった。ただ見たことのない字種ばかりだったことに、戸惑いながら作業をしていたように記憶している。最後に章法、すなわち文字のセンターを決める作業をして完成となる。

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●『広漢和辞典』

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●『広漢和辞典』索引より

 写研に入社したからといって、新人研修以外で石井細明朝体を集中的に制作できることは少ない。そのうえ『広漢和辞典』というかたちで残されていることはラッキーだったと思っている。数多くある本文用明朝体の中で、いまでも石井細明朝体がいちばん好きな書体なのである。
posted by 今田欣一 at 17:17| 航海誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月27日

[航海誌] 第2回 かな民友ゴシック

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(かな民友ゴシックの文字盤)

 有限会社字游工房では、東京築地活版製造所の「初号明朝体活字」の和字書体をベースとした「游築初号かな」ファミリーとともに、「游築初号ゴシックかな」ファミリーを開発、販売している。この「游築初号ゴシックかな」について、つぎのように説明されている。

私たちがベースにしたのは『藤田活版製造所・ボックス式鋳造初号ゴシック』の見本帳です。昭和6年5月というクレジットが入っています。母型は東京築地活版製作所のものだろうと思っていますが、違うかもしれません。いずれにしても金属活字時代の見出しゴシックを代表するかなです。写植書体の『かな民友ゴシック』も同じ系統のかなです。


 ここで触れられている「かな民友ゴシック」を私が担当したのは、1981年だった。ベースとして渡されたのは初号活字が並んだ印刷物のコピーのフィルムだったのだが、民友社初号ゴシック体の和字書体ということであった。
 すでに「かな民友明朝」を制作していたので仮想ボディ48mmサイズになるように拡大することからはじめたのも同じである。制作の進め方も同じで、修復法(写真のピンホールを埋めるスポッティングのような手法)で、インキがはみだしたり、かすれていたりしているようなところを修整していった。

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(民友社ゴシック体活字)
※この見本帳では、初号の見本は漢字しかない…。

 この「かな民友ゴシック」は私の好みではなかった。当時は中村征宏氏デザインの「ゴナU」が人気だったので、どちらかといえば、そういった現代的な感じのする書体に興味を持っていたので、「かな民友ゴシック」は古くさいと感じていた。だから、命じられた仕事のひとつとして、淡々とこなしたのであった。
「ゴナU」について、中村征宏氏は『文字の巨人』(インタビュー・構成=鳥海明子・字游工房、2004年)で、つぎのように話している。

「ゴナの発想ですが、以前ポスターを見たときにアルファベットのサンセリフと普通の和文ゴシックを組んだものを見たときに印象が違うことが気になっていて。和文ゴシックの横線は左右が、縦線は上下が開いたり、少し打ち込みの感じを持たせた形をしているのに対して、アルファベットの『H』の線は完全な長方形ですよね。だからあの線を使ったほうがアルファベットと混植したとき、これまでのものよりは違和感が少なくなるんじゃないかと思っていました。それが線質を決めた理由です。
 それから直線的な線は、雰囲気はないかもしれないけど、シャープでモダンになるかなぁというのもありました。アルファベットの感覚を持ち合わせたかったですね。ゴナは毛筆から卒業したというか、筆を引きずらないで別のものにしたということを評価していただけると非常に嬉しいですね(笑)」


「ゴナU」はのちにファミリー化されて、写研を代表する書体のひとつとなっていく。そんな時代だったのである。「ゴナU」とは対照的な「かな民友ゴシック」ではあるが、実際に担当すると、ちょっととぼけた感じのするこの書体に愛着がわいてきた。捨てがたい魅力を感じ始めてきたということだろうか。

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(「ゴナU」は、のちにファミリー化された)

 和字書体の復刻にあたっては、組み合わせる漢字書体を想定していた。「かな民友明朝」については、同時に開発されていた秀英明朝(SHM)にあわせることを前提とした。既成の書体の中でいちばんマッチすると思われたからだ。「かな民友ゴシック」と組み合わせる漢字書体は、マッチする書体を見いだせなかった。次善の策として既製書体の中から雰囲気の合っている新聞ゴシック体(YSEGL)に合わせることにしたが、どうもしっくりこない。可能ならば秀英ゴシック(仮)を写植文字盤として制作すればいいのにと、当時は漠然と思っていたものである。
 ところが、写研のデジタル・タイプ見本帳である『タショニム・フォント見本帳No.5A』(株式会社写研、2001年)には、「かな民友ゴシック」が新聞ゴシック体(YSEGL)と混植されているのは仕方ないとして、「かな民友明朝」も新聞特太明朝(YSEM)との混植が掲載されている。制作当時いろいろ検討して決めただけに残念なことだった。

 この『タショニム・フォント見本帳No.5A』に掲載されているほとんどすべての書体が、文字盤用の原字からデジタル・タイプ(C-フォント)化されたということである。当時のデジタル・タイプの担当部署での工程を詳しくは知らないが、デジタル・タイプ化されたということは、あらたな段階の復刻がなされたということなのである。
 私が活字清刷から復刻した写植文字盤用の「かな民友ゴシック」は、ほかの担当者によってC-フォント用の「かな民友ゴシック」としてさらなる再生をはたした。「游築初号ゴシックかな」は、「かな民友ゴシック」と同系統にある藤田活版製造所の活字書体を復刻したものである。「かな民友ゴシック」と「游築初号ゴシックかな」は、時代をこえて受け継がれていく書体の、現在におけるそれぞれの姿なのであろう。
posted by 今田欣一 at 18:49| 航海誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする