2013年04月26日

[コンペは踊ろう]第1章 装飾書体の時代(4)

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● 第7回石井賞創作タイプフェイス・コンテスト応募書体 1982年

 第7回(1982年)石井賞創作タイプフェイス・コンテストには、濃淡を単線スクリーンからのヒントでえられた階調であらわしたこの活字書体を応募した。その根底には隷書碑があった。田鶴年刻「鮮斎永濯碑銘」にみられる筆圧と筆速をベースにしているのだ。その応募にさいして添付した「制作意図」を「鮮斎永濯碑銘」との関係という視点で再考してみよう。

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●「鮮斎永濯碑銘」(1902年 亀戸天神社)

◆筆圧・筆速を濃淡に置きかえる
 応募のときに添付する制作意図には、次のように書かれている。

 運筆に従って、力の入る部分と抜く部分に濃淡をつけ、階調のある表情豊かな書体を作りあげた。印刷の「単線スクリーン」(再現性に欠けるため、今はあまり使われていない)を応用し、文字のフォームをもっとも忠実に表現できるよう、ラインを45度、2.5mm間隔に設定した。


「運筆に従って、力の入る部分と抜く部分に濃淡をつける」とは筆圧による深浅を濃淡に置きかえるということを意味する。「階調のある」とは筆速の変化がなめらかな階調になるということである。もともとの隷書の運筆をゴシック体に応用して、筆圧と筆速に変化をつけ、立体的、平面的なあらたな広がりを感じさせることができたのである。
 この書体の筆法はゴシック体と同じ等線であるが、筆圧と筆速というものを内部に持っている。ゴシック体の中には、起筆と終筆にアクセントを付けることにより筆圧と筆速が表現されているものもあるが、この書体では筆圧と筆速というものをアクセントではなく濃淡で置きかえた。起筆は濃く、送筆は薄く、終筆はまた濃く、すなわち力を入れた時は濃くなり、力を抜いた時は薄くなるということであった。濃淡のベースになったのが隷書体なのである。
 活字書体で濃淡を作る手段として考えたのが単線スクリーンであった。網目スクリーンや砂目スクリーンでは、活字書体として実現することがむずかしかったということもあるが、なによりダイナミックなイメージが魅力的だったのである。この書体は単にウルトラ・ボールドのゴシック体にトーンを付けただけではないのだ。

◆薬研彫か円彫か、切り画彫か通し画彫か
 石井賞創作タイプフェイス・コンテスト応募のときに添付する制作意図は、さらに次のように続いている。

 刺激的でチラチラするというイメージが強すぎないように、文字のフォームは、現代的な表情の中にいくらかマイルドな味をつけてみた。同様に、エレメントも紡錘形を基本として濃淡を調整、先端部に太さをもたせて、視覚的な「線の歪み」を抑えた。


 最初の試作では「菱形」を並べて作った。菱形というのは薬研彫をイメージしていた。紡錘形というのは円彫なのではないかと考えられる。最初の試作の段階では、ひとつひとつのパーツは菱形になっていた。画線の中央部が一番濃くなっている。つまりいちばん深くなっているということになり、いわば薬研彫の状態であった。
 しかし薬研彫のようにつくられた文字は、目に痛いほどチラチラしていた。錯視による線の歪みも激しいもので、とても品位など感じられなかった。活字書体で薬研彫を再現することは無理があった。菱形から紡錘形へ、薬研彫から円彫へ……この変更で悩んでいたことが解決した。視覚的な線の歪みをある程度おさえてくれ、美しい階調が表現できたのだと思う。
 文字の結構はオーソドックスなゴシック体をベースにした現代的なスタイルである。単線スクリーンの応用ではイラストレーションのような効果をもっているので、結構は比較的おとなしくしてバランスをとった。
 オーソドックスな結構にしたことにより、かえって筆法のダイナミックさが強調されたように思われる。もちろん、ウルトラボールド・ウエイトだからこそ、オーソドックスな結構だからこそ、可能になった筆法である。
 最初の試作の時から設定されていた45度ラインは、縦画、横画、磔法などを生かし、犠牲を掠法のみの最小限に食い止める措置であった。またラインの間隔も、単線スクリーンの効果と判別性とを考えて決めた。
 印刷での階調は、写真などの原稿があって成立している。この書体の場合、もともとの階調までも手作業で描かねばならないし、少しの乱れも許されない。しかも画数の多い漢字では、判別性を維持するだけでも難しいことであった。
 この書体は、制作においてかなり制約を持っている。それを微妙な調整によって、書体としての品格を保とうとしているのである。一番苦心したのは掠法であった。45度ラインと平行になり、そのうえカーブしているため、濃淡と字形を自然に再現するためにかなり調整した。全体的には、ゴシック体としてのエッジのシャープさに特に気をつけてデザインした。
 斜め45度に並べた紡錘形のひとつひとつの膨らみによって作りだされた「起筆・送筆・収筆」の濃淡によって筆勢を表現することで、膨らみ具合の調整を間違えるともう文字には見えなくなる。自然な味わいで描写することが必要なのである。
 字画の処理の仕方から見た分類として、切り画彫と通し画彫がある。これは薬研彫にも円彫にもあるので、切り画薬研彫、通し画薬研彫、あるいは切り画円彫、通し画円彫があるということになる。切り画彫は、先に彫られた画に突きあたる少し手前で一部を残して彫りをとめる。また画の一部を共有するときには、一本は完全な姿に彫り、他は削りとられた姿に一部を残して画を彫りわける。
 通し画彫は、先に彫られた画を意識することなく、先の彫りに突きあたっても彫りの調子を変えることなく彫りすすめる。つまり交差する2本の画の共有部分は、両方からけずりとられた姿になる。この書体は通し画彫のようになっている。碑刻とはことなり、この書体では切り画彫のほうがハーフトーンの調節は簡単だと思われる。通し画彫のほうがひろい面積でハーフトーンをつくらなければならないからだ。
 1字1字や書体全体のウエイトをコントロールして、視覚的にフラットで不自然な濃度ムラのない面を作り出さなければならない。これが乱れると、ノイズとなって人々に不快感を与える。

◆適正印字サイズ
 制作意図は、印字サイズに対する条件で締めくくっている。タイプフェイスは最終的には印刷されて初めて人々の目に触れる。これは実験の場であるコンテストでも意識されなければならない。

 小級数では、線質の悪いゴシック体のようにしか見えないので使用できない。組みあがりがハーフトーンになれば最も効果的であり、そのためにも50Q以上で印字してほしい。


 この書体は見出用としてもちいるために制作したので、50Q以上で印字してほしいとの条件を、主催者へのメッセージとして書いている。ただ作品集などでは、フォーマットが統一されているために50Q以下で印字されたのはやむをえないことだった。

 この書体は、1982年、第7回石井賞創作タイプフェイス・コンテストで、第1位になった。

※写研での「ボカッシイ」制作については「文字の厨房」にて。

2013年05月11日

[航海誌]第10回 秀英明朝(漢字)

 株式会社写研では1980年に文字部が発足するとともに開発デザイン係と原字課が分離された。開発デザイン係で設計プロセスを担当し、原字課で制作プロセスを担当するという構想だった。開発デザイン係の最初の書体が「秀英明朝」(文字盤コード:SHM)の設計だった。
 私にとっても、はじめて本格的に取り組んだ漢字書体であった(漢字書体のみ担当)。26歳のときである。直接の上司だった鈴木勉氏は「ゴーシャE」という書体の開発をすることになっていた。そのため私が「秀英明朝」を任されることになり、橋本和夫氏の指示を直接受けることになった。

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●『明朝初號活字見本帳』(株式会社秀英舎 銀座営業所)

 最初に渡されたのは、大日本印刷から提供されたと思われる『明朝初號活字見本帳』の複写物(フィルム)だった。写研では漢字書体の場合、多くは48mmのボディ・サイズで制作していたので、初号のサイズから48mmのボディ・サイズに拡大することから始まった。そのままの拡大率でいいのか検討し、写研の写植機の特性を考慮して、もともとの初号サイズ時の字面に対して、ごくわずかに小さめの字面で設定したと記憶している。
 漢字書体はひとそろいとする字数が多いので、まず「書体見本」字種の12文字を制作して方向性を確立する。この12文字には代表的な部首が含まれること、画数の少ないもの、多いものなど太さや字面の基準となるような字種であった。

   毛 永 辺 紙 東 室 調 囲 激 機 驚 闘

 これを『明朝初號活字見本帳』の中から抜き出そうとしたが、「辺」「囲」「調」「機」「闘」は異なる字体の字種しかなかった。最初から大きな壁が立ちはだかってきた。とりあえずこの5文字をのぞいて、残り7文字を修整することにした。

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●書体見本字種(見本帳より抜き出したもの)

 アウトラインを整えるだけだと思っていたので、それほど難しいことだという認識はなかった。気楽にやってみたのだが、この字種を修整したとき、どこかイメージが違うようだった。横画が右下がりに見えたので水平にしてしまっていたのだった。橋本氏から「横画の収筆を直してしまうと台無しだよ、一点を見ないで全体の姿勢を見ろ」と指摘された。
 当時はフィルム原字の場合は、1mm方眼のスカイブルーのゲージを下から当てて作業していた。すると少しでも水平垂直がきちっと出ていないと、どうしても気になってしまい、まっすぐにしてしまっていたのだ。これは横画だけではなく、豎画にもあてはまることだった。
 線を引いてしまうと、自分の線を作ってしまうことになってしまう。そこでピンホール埋めのような手法を考えだしたのだった。宋朝体や楷書体にくらべれば、制作するのが簡単だと思っていた明朝体でさえ、その造形の奥深さを知ったのが、この「秀英明朝」だった。

 書体見本用漢字の残り5字も、部分的に修整したり、他の字種の部分を合成したりして、なんとか体裁を整えた。つぎに、当時写研では「雛型見本用漢字」と呼ばれていた字種を制作していった。正確な字数を忘れてしまったが、350字ぐらいが定められていた。ここまでが開発デザイン係の「設計プロセス」、これ以降が原字課の「制作プロセス」とされていた。
 従来の制作方法では、書体見本用漢字と雛型見本用漢字を制作したあと、これらの字種をもとに「作字合成法」によって字種を拡張するシステムになっており、これをベースにしたリストが作成されていた。これによって開発デザイン係と原字課の業務をわけようとしていたのであろう。ところが、その第1弾が「秀英明朝」だったというのが失敗だったかもしれない。
 私としては、まず『明朝初號活字見本帳』に掲載された字種の修整を先行し、それをベースにして、残りの字種を制作するという進め方がベターだと思っていた。「雛型見本用漢字」の半分近くは『明朝初號活字見本帳』にはなかったのだ。一方で、開発デザイン係と原字課による制作システムを構築するためには、これから制作することになる書体にも応用できるようにしなければならなかった。そこで「雛型見本用漢字」の制作において、『明朝初號活字見本帳』に掲載されている字種の修整と、それをもとにして字種を制作するというシミュレーションを行なうのだと考えるようにした。
 「雛型見本用漢字」の制作にあたり、当初は『明朝初號活字見本帳』にない字種を『壹號明朝活字見本帳』や『明朝貳號活字摘要録』から採ろうとしたが、やはりイメージが異なっていた。結法の参考程度にとどめることにした。

 書体見本と雛型見本をもって、原字課に制作をゆだねるのであるが、もちろんそれだけではすまない。「設計基準書」の作成である。もともと漢字書体は制作字種が多いので、数人で制作することが多い。お互いの意志の疎通をはかることが必要となってくる。また制作期間が長期におよので、その間に少しずつ感覚が変わらないようにしなければならない。そのための「設計基準書」なのだが、「秀英明朝」の場合、さらに重い役割を担っていた。
 「設計基準書」には、書体見本と雛型見本との制作をつうじて、橋本氏から指摘されたことや、自分で把握したことを細かく盛り込んだ。ピンホール埋めのような手法や、活字書体の設計法としての三要素−−筆法・結法・章法−−についても詳しく記した。細部の設計においては図示して説明し、基本的な要素をしめして、許容できる例(OK)、許容できない例(NG)をそれぞれあげておいた。活字書体としての設計思想の違いによる差異については統一しておくことが望ましいので、「設計基準書」に付属して「統一基準表」を作成した。また、書体見本と雛型見本からではなく、『明朝初號活字見本帳』の字種を先に制作し、それをもとに展開してほしいとの意見をつけておいた。

 もともとの構想では、書体見本、雛型見本および関係書類をもって、私の手から離れるはずであった。だが、そうはいかなかった。原字課にとっては、この新しい制作のシステムに少なからず不満があったようだ。原字課からの要請で制作プロセスにも関わることになり、できあがった原字の監修、テスト印字物のチェックと修整の指示を受け持つことになった。原字課長がいて、制作グループのチーフがいるわけで、私は宙ぶらりんな立場になってしまった。
 原字課での作業において、制作を合理化する手法として採用されていたのが「作字合成法」である。「作字合成法」による書体制作は時間短縮になるばかりか、同じ要素が統一されるというメリットがある。書体見本字種を基に偏や旁の部品をあらかじめ制作しておくことから作業は始まる。これを合理的に制作したものが先にのべた「雛型見本」である。一つの偏でも3種類の幅の字種が選定されているものもあり、「作字リスト」によって的確に組み合わせていく。「秀英明朝」では、『明朝初號活字見本帳』の掲載字種をベースにした特別の「作字リスト」が作成された。
 当時はフィルム原字だったので、ハサミとテープを駆使してバランスを考えながら作っていく。時間短縮になるばかりか、同じ要素が統一されるわけだから、「秀英明朝」のような場合にはとくに威力を発揮した。当然これで完璧にはならないわけで、写真的処理をしてフィルム上でさらに仕上げていくことになる。

 ところで、写研の「秀英明朝」は「石井特太明朝」の影響を受けているのではないかという批評があった。少なくとも「秀英明朝」の制作過程において「石井特太明朝」など他の書体を参考にもしていない。また私自身も制作スタッフも「石井特太明朝」の制作にはまったく関わっていない。
 『明朝初號活字見本帳』に掲載された字種だけをたよりに、それを忠実に再生することだけを念頭において制作した。「秀英明朝」は秀英舎の書体である。それが再生できていないという批評であれば甘んじて受けなければならないが、写研に在籍しているだけで石井茂吉氏の書風に染まっているという指摘は理解できない。私が写研で身につけたのは、書体へ取り組む姿勢なのである。

 同時期に進められていた鈴木勉氏の「ゴーシャE」も同じ制作システムで制作された。こちらは「秀英明朝」のような混乱はなかったものの、最終的には鈴木勉氏によるチェックを経て完成した。 こうして「秀英明朝」と「ゴーシャE」はともに1981年に発売されたが、開発デザイン係で設計プロセスを担当し、原字課で制作プロセスを担当するという構想は失敗に終わったようだ。

2013年06月08日

[航海誌]第14回 ボカッシイ

 石井賞創作タイプフェイスコンテストにおいて、「1位、2位、3位に入賞した書体の著作財産権は、株式会社写研に帰属する」というのが応募の際の条件であった。応募者は、これを承知の上で応募したということになる。
 ただし、入賞した書体、つまり著作財産権を移譲された書体のすべての商品化が約束されたものでもなかった。商品化するかどうかは、写研の判断に委ねられていた。商品化が決定されると、応募者(制作者)と、制作料、制作字数、制作期間などの交渉が始まる。次のような制作方法があった。

1 すべての字種を応募者が請け負う
2 一部を応募者が制作し、それ以外を写研もしくは第三者が制作する
3 すべての字種を写研もしくは第三者が制作する

 第7回石井賞創作タイプフェイスコンテスト第1位入賞書体の場合、応募者が写研の社員(私)であったために、必然的に「3 すべての字種を写研で制作する」ということになった。入賞した時点で、個人としての私ではなく、社員としての私が、業務命令で制作するということになったわけである。よく聞かれるのだが、もちろん給料のみで、それ以外の制作料などが発生することはなかった。
 写研で制作したこの書体は「ボカッシイG」と名付けられた。ナール、ゴナの「ナ」、スーボ、スーシャの「ス」と同様に、ボカッシイの「イ」は、イマダの「イ」である。当初は「キントーン」が考えられたが、類似商標があったので採用されなかった。私が個人として第7回石井賞創作タイプフェイスコンテストに出品した書体を「第7回石井賞1位書体」、それをもとに写研で制作した書体を「ボカッシイG」ということにする。

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●書体見本

 結法の参考にしたのは「ゴナU」である。できるだけ太く、できるだけ方形にした方が「ボカッシイG」には効果的であった。したがって、「第7回石井賞1位書体」より「ボカッシイG」のほうがより太く、より方形になっている。
 「ゴナU」の制作者は中村征宏氏。1942年、三重県生まれ。看板業、印刷会社、テレビ局、デザイン・フィニッシュスタジオに勤務ののち、第1回石井賞創作タイプフェイスコンテスト第1位入賞を機に書体デザイナーとなっている。著書に『新技法シリーズ 文字をつくる』(美術出版社)がある。
 「ゴナU」は、当時最も太かった「石井特太ゴシック」よりも、もっと太い角ゴシックを作って欲しいという写研からの依頼によって制作された。これ以上は無理だろうと思われるぐらいの太さは、その当時では考えられないものだった。その発想は欧字書体のサンセリフ(筆者註:おそらく「ユーロスタイル・ボールド(Eurostile Bold)」ではないか)にあったという。

「直線的な線は、雰囲気はないかもしれないけど、シャープでモダンになるかなぁというのもありました。アルファベットの感覚を持ち合わせたかったですね。ゴナは毛筆から卒業したというか、筆を引きずらないで別のものにしたということを評価していただけると非常に嬉しいですね(笑)」(字游工房『文字の巨人』インタビューより)

 「ボカッシイG」は、「ゴナU」で提案された方形の結法に、隷書の筆法を濃淡という表現手法で加味した書体であるともいえる。

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●ボディと45度ライン

 気になっていたのは、「第7回石井賞1位書体」に対する杉浦康平氏の審査評であった。

今年度一位の今田作品では、文字が印刷されあるいはブラウン管のなかに立ち現れる、いわばメディアの中で再生されるときに負荷される、雑音や歪みそのものをモチーフにした、着想の妙が評価されたと思う。しかし、ボディを埋めこむ45度斜線が、時に曲線部分のふくらみに視覚的歪みを与え、字形自身のふくらみを失わせたのは惜しい。雑音性の中に品位を見いだすことこそ、主題となるべきである。

 45度ラインに規制された書体なので、とくに45度と平行になってしまう掠法や啄法を描くには無理がある。そこで45度ラインを意識しつつ、「視覚的歪み」をなくすよう微妙に調整していった。さらに45度と少しだけずれる側法や磔法の収筆なども45度ラインに沿わせないで調整した。

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●「ボカッシイG」の制作現場

 「ボカッシイG」の制作には、私を含む延べ10人以上の写研社員が携わっている。彼ら制作スタッフからは、「悪魔の文字」と思われていたかもしれない。そのうちのひとりが、たわむれに「涙のボカッシイ」という歌をつくった。

目は疲れるし 肩は凝るし
やたら気分は滅入るし
頑張っていても 進まないし
なんとか早く 逃れたかったよ
仕事だから 仕方ないけれど
二度とは もうやりたくないさ

いつまでも いつまでも
僕は忘れないよ 涙のボカッシイ

 こうしてメインプレートに収録される字種が終わったとき、写研の石井裕子社長より「あなたは書道の基本がわかっていない」との叱責を受けた。「濃淡の付け方が、楷書とは異なっている」というものであった。つまり、掠法の先端などは弱くするべきだというのである。「隷書の筆法をもとにしているのだし、先端を細くすること自体が無理なのになあ」と内心は思っていた。
 橋本氏や鈴木氏と相談して作戦を練った。結局、何種か試作して、現状より少しだけ調整する方向で石井裕子社長にもなんとか理解していただけた。全面的な修整作業が必要になってしまったが、最小限のものだったので、ほっと一息ついたものだった。

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●組み見本:「徒然草」より

 1983年11月、「ボカッシイG」のメインプレートおよび専用記号文字盤(BKIG-SB)、専用欧文文字盤(E71-54)が先行発売された。第1外字文字盤(BKIG-S 1−7)が発売されたのは翌1984年のことだったと思う。1982年夏から1984年秋までの足かけ3年を費やしたことになった。
 発売されるや否や、アートディレクターの浅葉克己氏により、ポスターや広告に使用された。さらに、多くのデザイナーの支持を得て、書籍のカバーなど幅ひろく使用されている。

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●使用例:『占術家入門報告』(中沢けい、朝日新聞社、1996年)

※「ボカッシイG」のメインプレートおよび専用欧文文字盤(E71-54)を欣喜堂で保管している。

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2014年07月17日

[見聞録]第2回 ゴナとナールのファミリー・ヒストリー

●ゴナのファミリー・ヒストリー
ゴナUは中村征宏さんにより制作され、写研から1975年に発売し好評を得て、ゴナEが同じく中村さんにより制作された。中村さんが制作したのは、ゴナUとゴナEだけであり、それ以降のファミリー化は写研でなされた。

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 まず、ゴナOが写真処理技術を駆使して制作された。技術的なことは詳しく知らないが、レンズに特別な治具を取り付け、回転させることによってゴナEの原字を全体に太くしてネガ・フィルムを作成し、その上にゴナEのポジ・フィルムを正確に貼付けて縮小して、これを原字のベースとした。その上で、角が丸くなったのを修整し、全体的に太さなどを調整するなどしていった。ゴナOSは、ゴナOからさらに写真処理技術によって原字のベースを作成したものだ。ゴナOとゴナOSの修整作業に私も加わっている。
 ウエイトのファミリー化が促進される決め手となったのは、「IKARUSシステム」の導入によるものである。「IKARUSシステム」のインターポレーション機能によって中間ウエイトの作成が容易になったのだ。
「IKARUSシステム」のインターポレーション機能によって、すでに作成されていたゴナEと、新たに作成するゴナLの中間ウエイトの作成することになった。その段階をどうするかということの決定に際して、私も少し手伝っている。
 当初は、それまで最もファミリーが充実していた石井ゴシック体を参考にして、ゴナL、ゴナM、ゴナD、ゴナB、ゴナE、それにゴナUを加えた6段階として試作した。これに対して石井社長からゴナDとゴナBの間にゴナDBを制作することが提案された。
「ゴナDはデミ・ボールド、ゴナBはボールド、ではゴナDBは何だろう」とか困惑しながらもその提案にしたがった。ゴナDとゴナBの間に単にゴナDBを入れると、そこだけ間隔が詰まってしまうので、ほかのウエイトも調整し、ウエイトの間隔が均等になるように試作を練り直した。さらに、ゴナDBが増えたことにより、ゴナEとゴナUの間が空くことになったので、ここにゴナHが加えられた。こうして都合8ウエイトという今までにないファミリーが企画されたのである。
 まず、鈴木勉さんを中心としてゴナLの制作に着手した。このゴナLとゴナEのアナログ原字をデジタイズすることにより入力し、中間のゴナM、ゴナD、ゴナDB、ゴナBをフィルムで出力した。それを、それぞれのチームに振り分け、アナログの手作業で修整するというやり方をした。
 当時は、ワークステーションの数が少なかったのと、原字はアナログですべきだという社長の考え方もあって、ワークステーション上でアウトラインを修整することはできなかった。ひきつづき、ゴナUのアナログ原字をデジタイズにより入力し、ゴナEとのインターポレーションによってゴナHを出力、同じようにアナログの手作業で修整した。
 なお、ゴナINはゴナUに、ゴナLBはゴナOにシールを貼り込む方法で制作した。簡単そうに思えるが、じつは、これらの書体がそれまでのどの書体よりも時間と根気のいる作業であった。
 このようにして、ゴナ・ファミリーの完成を見たのは1985年であった。

●ナールのファミリー・ヒストリー
「ナール」は第1回石井賞創作タイプフェイスコンテスト(1970年)で第1位になった作品である。制作者は中村征宏さんである。中村さんはナールとナールDを制作し、それ以降のファミリー化は写研でなされたと聞いている。

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 まず、ナールとナールDの中間ウエイトとして、ナールLとナールMが制作された。まだ「IKARUSシステム」が導入される前であり、もちろんインターポレーション機能で制作したわけではない。私が入社する前のことなので詳しくは知らないが、おそらく写真処理技術を使って、原字のベースが作られ、それをもとに修整したのだと思う。また、ナールDをもとにして写真処理技術を使ってナールOが制作された。ゴナEをもとにしたゴナOとは、同じアウトライン書体とはいえ、太さが大きく異なっている。
 私が入社したのは、ちょうどナールEの制作が終わった頃だった。装飾的なファミリーの充実が図られた1985年にはゴナIN、ゴナLBとともに、写真処理技術を用いてナールOS、ナールSHが制作された。
 ゴナのファミリー化によって、「IKARUSシステム」のインターポレーション機能が使えることがわかり、ナールDとナールEとの中間ウエイト、すなわちナールDBとナールBの制作が企画された。すでにゴナDBが世に出ていたので、DBというウエイト表記にも抵抗がなくなっていた。石井社長もご自身の発案で開発されたDBというウエイトに愛着があったようで、ナールDBの制作はすぐに承認された。ところがナールBについてはゴー・サインが出されなかった。
 ナールDとナールEがデジタイズされていたので、「IKARUSシステム」のインターポレーション機能ではすぐに出力できる。ナールDBがあってナールBがないというのは収まりが悪いので、私も何度か提案したのだが、首を縦に振ることはなかった。その理由は未だにわからない。私の提案の仕方が悪かったのかもしれない。
 1995年にはナールHとナールUが加わり、ナール・ファミリーが完成を見ることになるのだが、それにしてもナールBが制作されていないのが心残りであった。

2014年07月18日

[見聞録]第3回 スーシャとゴーシャのつくりかた

●スーシャ・ファミリーのつくりかた
鈴木勉さんが株式会社写研主催の第3回石井賞創作タイプフェイスコンテスト(1974年)で第1位を獲得した横組み専用書体は、1979年にスーシャLとして、そのファミリーであるスーシャBとともに写研から発売された。

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 私が入社したときには、スーシャLはほぼ完成しており、ひきつづきスーシャBが企画されていた時期であった。私もスーシャBの漢字書体の制作に、スタッフのひとりとして立ち上げの段階から参加した。
 鈴木さんは、空間、錯視の見方に優れていた。文字の左右の縦画の角度を微妙に変えるなどの調整を施している。一字一字をよく見ると、極めて巧妙な視覚的な調整がなされていることがわかる。
 制作方法に関して柔軟な考え方を持っていた。あらかじめ偏や旁などを、パーツとしてフィルムで作成しておき、それを組み合わせながら一文字を完成させるやり方だった。制作する順序も文字盤の配列のとおりではなく、制作しやすい順序ですすめられた。
 それ以前から、作字合成する方法はあったが、新規制作で、ここまで徹底してやったのははじめてであった。今でこそ、デジタル・タイプではごく普通に行われているのだろうが、フィルムで、ハサミとセロテープを駆使して制作していたのだ。
 鈴木さんも私も退社した後でスーシャHなどが開発された。これを見て鈴木さんは苦笑されていたという。

●ゴーシャ・ファミリーのつくりかた
ゴーシャは、横組専用書体として鈴木勉さんが開発したスーシャ・ファミリーに対応するサンセリフ系の書体である。1981年に、まずゴーシャEが写研から発売され、順次ファミリー化された。

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 鈴木さんがいくつかの案を作成し、そのなかからひとつの案が採用となった。私が鈴木さんのもとでゴーシャEに関わったのは、どのような方法で制作するかという仕様作成段階である。まずは原字のベースの準備。写真処理の特別の機械を使用し、暗室にこもっての作業を手伝ったのを覚えている。
 制作には合理的な考え方を持っていた鈴木さんは、その版下に、アクセントをフィルムでシールのように、手作業で貼付けていくという方法を考えた。こうして、本制作に必要な基本の漢字と、その仕様書ができあがった。
 本制作においては、スーシャBと同様に「作字合成法」が駆使された。この時期に作成されていた「作字合成法」のリストが、その後の書体制作に多いに役立ったことはいうまでもない。また、シールを貼付けるという方法も、他の書体で応用された。
 ところで、鈴木さんはアクセントの付け方に悩んでいたところがあった。「点」の筆法のところに、ゴーシャでアクセントをつけるかどうかということである。私にも意見が求められ、スーシャに合わせてつけないほうがいいということで一致した。
 その後ファミリー化されて、ゴーシャU、ゴーシャO、ゴーシャOSが開発されたが、同じデザインが踏襲されていた。ところが、鈴木さんも私も退社した後で開発されたゴーシャMでは、ここにもアクセントがつけられている。どうしてそのようになったのかは知る由もない。