2013年03月25日

[航海誌]第1回 かな民友明朝

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(かな民友明朝の文字盤)

 株式会社写研では1980年に文字盤部と文字制作部が合併して文字部が誕生した。あらたに開発デザイン係が発足して鈴木勉氏が係長となった。私はこの開発デザイン係に配属された。このときから鈴木勉氏が退職されるまで、ずっと直属の上司だった。
 開発デザイン係の最初の書体が「秀英舎初号明朝体活字」(商品名は秀英明朝)の復刻だった。エディトリアルデザイナー杉浦康平氏の強い希望があり、写研が大日本印刷から写植化する権利を得て実現されたと聞いている。
 写研では、漢字書体、和字書体、欧字書体それぞれ異なる工程、担当者ですすめられていた。「秀英舎初号明朝体活字」の漢字書体については、べつの回でくわしく書くことにする。ここでは和字書体についてのみとりあげ、便宜上、「かな秀英明朝」ということにする。
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(秀英舎初号明朝体活字)

「かな秀英明朝」の復刻を担当していた鈴木勉氏のことについて、『鈴木勉の本』のなかで鳥海修氏はつぎのようにしるしている。

 鈴木勉はこの仮名の制作(復刻)を担当した。初号といえば一辺が約15mmの大きさの清刷である。これを約5cmに拡大して修整するのだが、復刻だから簡単に思えるかもしれないが、実はこれが難しい。清刷というのは紙に印刷されたもので、インクがはみ出したり擦れたりがあり、それにより文字が太くなったり細くなったりするし、細部などは形すら分からないものがあったりする。鈴木は清刷から文字の形を読み取り、筆の動きを把握し、秀英明朝の仮名を自分の中に取り込み、消化しながら制作するのである。
 築地書体と並び称された秀英体の見出し書体を復刻しているという充実感と、過去の卓越した職人の技に触れることの喜びを感じつつ、まったく新しいものを制作するほうが楽だな…鈴木はそう思ったかもしれない。後年、鈴木はこの秀英明朝の仮名の制作を通して、仮名が分かったと言った。当人の探求心の賜物であると同時に、上司であった橋本和夫氏のアドバイスも大きいものがあったであろう。「仮名が分かった」と言った鈴木の晴れやかな顔が目に浮かぶような気がする。


 これと同時進行ですすんでいたのが民友社活版製造所の「民友社初号明朝体活字」の和字書体、すなわち「かな民友明朝」の復刻である。「かな秀英明朝」を鈴木勉氏が担当されていたので、「かな民友明朝」が私にまわってきた。このとき鈴木勉氏は31歳、私は26歳だった。

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(民友社初号明朝体活字)

 和字を制作する機会はめったにないことなので胸をときめかせて取りくんだ。じつは和字書体を担当したのはこれが初めてだったのだ。和字書体は限られた熟練者だけが担当していたので、長年活字書体設計の仕事に携わっている人でも和字書体にさわったことすらないのだ。したがって記録がなにも残されていないというのが現状である。
 担当者には資料の入手経路などの情報はまったく明かされてはいなかった。渡されたのは初号活字が並んだ印刷物のコピーのフィルムだけだ。それが見本帳からなのかどうかもわからない。とりあえずは、仮想ボディ48mmサイズになるように拡大することからはじめた。
 私が入社したとき、すべてのスタッフのライトテーブルの上にはフィルム原字があった。社外のデザイナーは原字用紙を用いていたようだが、社内でまとめるときには写真撮影をしてフィルムにするのが普通だった。
 活字清刷は紙に印刷されたもので、それを拡大したものときには、インキがはみだしたり、かすれていたりして、かたちがわからない個所もあった。ただ初号というのは15mm角ぐらいの大きさの活字なのでアウトラインが比較的はっきりとしていた。それほど判断を迷うことはないので、さほど経験のなかった私が担当できたのだと思う。
 写真のピンホールを埋めるスポッティングのような手法をとった。ただ自分の線を作らないように心がけた。自分の書体だという意識が強くなればなるほど、泥沼に足を踏み込むことになってしまう。たんたんと作業をすすめていった。当時は、この書体を担当することによって、和字書体の奥義が理解できたというようなことはなく、その後の和字書体の設計に影響を与えられたとも感じていなかった。しかしながら、この書体を担当したからこそ、今があるのだとつくづく思う。

●完成した「かな民友明朝」で組んだもの。
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 ところで、ベースとなった民友社初号明朝体活字の和字書体は、東京築地活版製造所のものと同じ系統にあると思われる。今にして思えば、民友社初号明朝体活字ではなく東京築地活版製造所のものを復刻したかった。ともあれ、鈴木勉氏は秀英舎系の、私は築地活版系の初号活字を復刻していたことになったのである。
posted by 今田欣一 at 20:12| 1章:「ボカッシイ」の時代(1977–1983) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月27日

[航海誌]第2回 かな民友ゴシック

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(かな民友ゴシックの文字盤)

 有限会社字游工房では、東京築地活版製造所の「初号明朝体活字」の和字書体をベースとした「游築初号かな」ファミリーとともに、「游築初号ゴシックかな」ファミリーを開発、販売している。この「游築初号ゴシックかな」について、つぎのように説明されている。

私たちがベースにしたのは『藤田活版製造所・ボックス式鋳造初号ゴシック』の見本帳です。昭和6年5月というクレジットが入っています。母型は東京築地活版製作所のものだろうと思っていますが、違うかもしれません。いずれにしても金属活字時代の見出しゴシックを代表するかなです。写植書体の『かな民友ゴシック』も同じ系統のかなです。


 ここで触れられている「かな民友ゴシック」を私が担当したのは、1981年だった。ベースとして渡されたのは初号活字が並んだ印刷物のコピーのフィルムだったのだが、民友社初号ゴシック体の和字書体ということであった。
 すでに「かな民友明朝」を制作していたので仮想ボディ48mmサイズになるように拡大することからはじめたのも同じである。制作の進め方も同じで、修復法(写真のピンホールを埋めるスポッティングのような手法)で、インキがはみだしたり、かすれていたりしているようなところを修整していった。

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(民友社ゴシック体活字)
※この見本帳では、初号の見本は漢字しかない…。

 この「かな民友ゴシック」は私の好みではなかった。当時は中村征宏氏デザインの「ゴナU」が人気だったので、どちらかといえば、そういった現代的な感じのする書体に興味を持っていたので、「かな民友ゴシック」は古くさいと感じていた。だから、命じられた仕事のひとつとして、淡々とこなしたのであった。
「ゴナU」について、中村征宏氏は『文字の巨人』(インタビュー・構成=鳥海明子・字游工房、2004年)で、つぎのように話している。

「ゴナの発想ですが、以前ポスターを見たときにアルファベットのサンセリフと普通の和文ゴシックを組んだものを見たときに印象が違うことが気になっていて。和文ゴシックの横線は左右が、縦線は上下が開いたり、少し打ち込みの感じを持たせた形をしているのに対して、アルファベットの『H』の線は完全な長方形ですよね。だからあの線を使ったほうがアルファベットと混植したとき、これまでのものよりは違和感が少なくなるんじゃないかと思っていました。それが線質を決めた理由です。
 それから直線的な線は、雰囲気はないかもしれないけど、シャープでモダンになるかなぁというのもありました。アルファベットの感覚を持ち合わせたかったですね。ゴナは毛筆から卒業したというか、筆を引きずらないで別のものにしたということを評価していただけると非常に嬉しいですね(笑)」


「ゴナU」はのちにファミリー化されて、写研を代表する書体のひとつとなっていく。そんな時代だったのである。「ゴナU」とは対照的な「かな民友ゴシック」ではあるが、実際に担当すると、ちょっととぼけた感じのするこの書体に愛着がわいてきた。捨てがたい魅力を感じ始めてきたということだろうか。

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(「ゴナU」は、のちにファミリー化された)

 和字書体の復刻にあたっては、組み合わせる漢字書体を想定していた。「かな民友明朝」については、同時に開発されていた秀英明朝(SHM)にあわせることを前提とした。既成の書体の中でいちばんマッチすると思われたからだ。「かな民友ゴシック」と組み合わせる漢字書体は、マッチする書体を見いだせなかった。次善の策として既製書体の中から雰囲気の合っている新聞ゴシック体(YSEGL)に合わせることにしたが、どうもしっくりこない。可能ならば秀英ゴシック(仮)を写植文字盤として制作すればいいのにと、当時は漠然と思っていたものである。
 ところが、写研のデジタル・タイプ見本帳である『タショニム・フォント見本帳No.5A』(株式会社写研、2001年)には、「かな民友ゴシック」が新聞ゴシック体(YSEGL)と混植されているのは仕方ないとして、「かな民友明朝」も新聞特太明朝(YSEM)との混植が掲載されている。制作当時いろいろ検討して決めただけに残念なことだった。

 この『タショニム・フォント見本帳No.5A』に掲載されているほとんどすべての書体が、文字盤用の原字からデジタル・タイプ(C-フォント)化されたということである。当時のデジタル・タイプの担当部署での工程を詳しくは知らないが、デジタル・タイプ化されたということは、あらたな段階の復刻がなされたということなのである。
 私が活字清刷から復刻した写植文字盤用の「かな民友ゴシック」は、ほかの担当者によってC-フォント用の「かな民友ゴシック」としてさらなる再生をはたした。「游築初号ゴシックかな」は、「かな民友ゴシック」と同系統にある藤田活版製造所の活字書体を復刻したものである。「かな民友ゴシック」と「游築初号ゴシックかな」は、時代をこえて受け継がれていく書体の、現在におけるそれぞれの姿なのであろう。
posted by 今田欣一 at 18:49| 1章:「ボカッシイ」の時代(1977–1983) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月05日

[航海誌]第3回 石井細明朝体(漢字)

 私が株式会社写研に入社したのは1977年4月1日のことだった。
 一週間の新入社員教育期間を終えて、この日から職場に配属された。同じ職場には、私を含めて3人が配属になった。ここでもすぐに仕事につくのではなかった。約2ヶ月間にわたる研修が待っていたのだ。
 その研修で、最初に実習したのは石井細明朝体である。石井細明朝体の書体見本が配られた。この書体見本は仮想ボディ48mmサイズで、基準となる12文字が並べられている。部首、画数などの参考となる代表的な字種である。これを観察して、課題の字種を描いていくのである。この48mmサイズというのは、手動写植機が16Q基準であったために、その倍数で2インチに近いものとして決められたようである。

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●新人研修で練習した石井細明朝体

 石井細明朝体は、写真植字機研究所社長の石井茂吉氏が、3年以上の歳月を要して昭和26年に完成させた書体である。この書体の制作意図については、『文字に生きる<写研五〇年の歩み>』(文字に生きる編纂委員会、株式会社写研、1975年)に次のように書かれている。

石井が作ろうとした新しい明朝体は戦後生まれ変わった日本にふさわしい、清新で、民主主義、自由主義の息吹きにマッチする明るい書体でなければならなかった。戦前に制作された石井中明朝体では、格調の高さが重んじられたのに対して、新しい書体では、戦後の明るい世相を反映する優雅な繊細さが重んじられた。と同時に、戦後、急速に、特に端物印刷にオフセット印刷が導入されてきたので、当然オフセット印刷に向いた書体でなければならなかった。


 私にとってのはじめての実作業というのは、大修館書店から発行される『広漢和辞典』のための石井細明朝体であった。これは『大漢和辞典』用石井細明朝体を改刻するという仕事であった。
 『大漢和辞典』用石井細明朝体は、大修館書店からの依頼によるもので、約5万字を制作している。昭和27年に制作を開始し、昭和35年に完成した。この『大漢和辞典』用の原字制作の労苦などが認められ、石井茂吉氏は昭和35年に「菊池寛賞」を受賞している。
 諸橋轍次著『大漢和辞典』は全13巻の大作であった。この汎用版として『広漢和辞典』が企画されたのだと思う。『広漢和辞典』でも全4巻である。大漢和辞典用の文字盤をそのまま使うのではなく、あらたに制作をし直すことになったようだ。
 おそらく大漢和辞典用の文字盤から拡大したのだろう、48mmサイズになったフィルム原字が渡された。書体制作はフィルム上で行われていた。画質はかなりボロボロで、なるほど改刻が必要だというのも当然だなと納得したものである。その作業は、私を含め入社3年未満の若者数名に託された。

 横線は48mmサイズ原字上で1mmに設定されていた。烏口を使って一発で引いていく。1.05mmでも0.95mmになってもいけない。スケール・ルーペで計測しながら、慎重に太さを合わせた。そして三角定規をあてて水平に引く。今のデジタル環境ではたやすいことが、当時はことのほか難しいことだった。
 石井細明朝体の筆法は、ひとつひとつに毛筆の運筆が考慮に入れられている。側法(点)ひとつとってみても、収筆のときに筆を引いているので、丸ではなく三角おむすびのようになる。このカタチにするのがなかなかできなくて苦労したものだ。
 おもな修整作業は画質をきれいにすることであったから、結法(フォルム)は大漢和辞典用の原字のままというのが基本だった。ただ見たことのない字種ばかりだったことに、戸惑いながら作業をしていたように記憶している。最後に章法、すなわち文字のセンターを決める作業をして完成となる。

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●『広漢和辞典』

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●『広漢和辞典』索引より

 写研に入社したからといって、新人研修以外で石井細明朝体を集中的に制作できることは少ない。そのうえ『広漢和辞典』というかたちで残されていることはラッキーだったと思っている。数多くある本文用明朝体の中で、いまでも石井細明朝体がいちばん好きな書体なのである。
posted by 今田欣一 at 17:17| 1章:「ボカッシイ」の時代(1977–1983) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月11日

[航海誌]第4回 石井中ゴシック体(漢字)

 新入社員の研修でもうひとつ実習したのは石井太ゴシック体である。書体見本12字に合わせて、この8字を練習した。この8字はすでにあるのだが、もちろんそれを見ることはできない。同じ書体を、同じ書体見本に合わせて、新入社員3名が同じ文字を描く。最初は石井太ゴシック体とは違うものになってしまうが、いろいろ指導をうけていくうちに、石井太ゴシック体となっていくのである。

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●新人研修で練習した石井太ゴシック体

 『広漢和辞典』のための石井細明朝体の制作が終わると、私は石井中ゴシック体の修整作業のチームに入った。石井中ゴシック体という書体の名称は変わらないが、文字盤コードではMGからMG-Aへのリニューアルである。石井太ゴシック体はすでにBGからBG-Aへの修整は終わっていたと思う。欧字書体で言えば、「○○ネクスト」、「○○ノヴァ」、「○○ネオ」とするところなのだろう。活字書体は、その時代や技術の変化に対応して、常にリニューアルしていかなければならないものなのだ。
 石井中ゴシック体は、写真植字機研究所社長の石井茂吉氏が昭和29年に完成させた書体である。およそ四半世紀を経てのリニューアルである。この書体について、『文字に生きる<写研五〇年の歩み』(文字に生きる編纂委員会、株式会社写研、1975年)に次のように書かれている。

細明朝が辞典や書籍に使われるようになると、小見出しや本文中の強調部分に使用するゴシック体が戦前に制作された太ゴシック体では太くて強すぎて、細明朝体に合わない。ユーザーからも印刷効果の上から太ゴシックより細いゴシックの要望が多くなった。


この中ゴシックは、縦・横線が太ゴシックの約4分の3の太さで書かれ書風は太ゴシックと同じであった。組んでみると本文に使われる11級、12級でもつぶれることなく、印刷効果は大変よかった。発売と同時に写真植字機設置の各社がただちに購入し、本文の強調部分や見出しに、それから以後、非常に多く使われ、写真植字独特のものとしてもてはやされた。


 石井中ゴシック体の筆法は、起筆・収筆が大きく喇叭状に開いていることだ。これがなかなかのくせ者で、上下や左右のバランスがくずれるとまっすぐには見えなくなる。その開き具合も画数によって違ってくる。この調整には、溝引きという技法が役に立った。
 道具というものは、自分の使い勝手がよくなるように手を加えて使うものである。まずは溝引定規である。ガラス棒との組合せで、おもにカーブを描くときに重宝するものだ。ちなみに直線部分は、おもに烏口をもちいる。ガラス棒と面相筆とを、箸を持つ要領で固定し、溝引定規の溝に沿わせる。
 溝引定規を回しながらカーブを描くわけだが、慣れれば手放せなくなる。この溝引定規は、裁縫のときに使う竹製の溝が切ってある30cmの定規をもちいる。これを半分に切断して、その両端にビニールテープを巻き付けたり、ゴム板を張り付けたりしていた。空間を作って、こすらないようにする工夫である。

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●当時使用していた書体制作の用具(再現)

 石井中ゴシック体の制作において、とくに難しいのは太さの調整である。同じ書体でも画数によって太さの取り方が変わってくるし、位置によっても違う。石井細明朝体の場合には、横画は原字上で1mmと決まっていたが、横画と豎画ともに調整しなければならない。
 修整には、フィルムでは修整刀をもちいる。かつては、鋸の歯を加工して手作りしていたようだが、私が入社していたころは、スクラッチ・ボードなどに使うカット・ペンを、ペン軸に差し込んで使っていた。これを荒砥石で斜めにし、オイル・ストーンで研いで使っていた。
 修整刀の場合、カーブの修整はフリーでおこなうが、直線の部分はスチールの字消し板をもちいる。字消し板というぐらいで、もともとは文章中の文字を訂正するときに使うものだが、ここでは外形の直線部分を利用していた。
 おもな修整作業は画質をきれいにすることであったから、結法(フォルム)は原字(MG)のままというのが基本だった。それでもアウトラインを書き直すことになるので、簡単な作業でもない。最後に章法、すなわち文字のセンターを決める作業をすることは、どんな書体でも共通している。

 このときは手動機文字盤としてのリニューアルであったが、これがデジタル・タイプ(Cフォント)化されるにあたっては、かなりの作業時間を要しているはずだ。オープン・タイプにすることは、同じデジタル・タイプとはいえ、それほど容易なことではないはずだ。
posted by 今田欣一 at 18:57| 1章:「ボカッシイ」の時代(1977–1983) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月14日

[航海誌]第5回 ヘルベチカ(写研バージョン)

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●ヘルベチカ・レギュラー 写真植字機用文字盤

 写真植字機用文字盤での欧字書体は、いまとなっては技術的な制約の多かった時代のものである。こういう苦労もあったという思い出話として記しておきたい。それにしても、文字盤上に記されている「Hight」ってなんだろう(笑)。

ヘルベチカを、写研の写植用文字盤として発売することになったのは、ユーザーからの要望が強かったからだったと思う。欧文書体として初めてのライセンス契約に基づくものであった。制作を担当したのは、半田哲也氏(現在字游工房)、岡田安広氏と私。みんな24、5歳のときであった。
 ハース社から送られてきたのは、活字の清刷であった。我々はここから原字として再現しなければならなかった。当然のことながら、同一書体でもポイント・サイズごとに清刷がある。どのように違うのか、そのあたりから手を付けたのだった。
 ポイント・サイズによっても、レターフォームに大きな差はなかった。決定的に違ったのは、サイド・ベアリングである。大ポイントではサイド・ベアリングは小さく、小ポイントではサイド・ベアリングは大きくなっていた。チーム内でいろいろ検討した結果、最大ポイントのものを拡大して使用することにし、その書体の基準となるポイント数におけるサイド・ベアリングの数値に合わせていこうということになった。
 さらに重要な問題としてユニット・システムがあった。当時の手動写植機は16ユニット・システムだった。つまり、全角の16等分を1ユニットとして、その倍数でボディ・サイズを設定しなければならなかった。清刷の字面のままユニットを設定すればいいというものではない。サイド・ベアリングとの微妙なバランスによって、字面を調整しなければならなかったのである。

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● 16ユニット・システムの説明図
『写植NOW[1]』(株式会社写研、1977年)より

 下っ端だった私の実際の作業は、レターフォームとサイド・ベアリングの計測から始まった。厳しい条件の中、オリジナルに視覚的に合わせるためにはどうしても必要な作業である。こうしてサイド・ベアリングの基準値を決定したのである。活字書体設計というと、実際に「描く」ということだけを考えがちであるが、このような調査の時間も必要なのである。そのような調査に、何日を要したことだろうか。
 デザイン自体も慎重に行われた。オリジナルの線を大切にするということから、清刷を拡大して切り貼りによって、ユニット・システムに合うようにレターフォームとサイド・ベアリングを調整していくのである。そのためには大幅な変更を余儀なくされることもある。ちょうど中間に来るようなキャラクターには頭を悩ませたのである。   
 オリジナルのイメージを損なわないように、オリジナルを拡大したものと比較しながら、カーブやウエイトの調整をしていったのだ。重ねてみれば全く異なるものを同じように見せようというのであるから難しい作業だ。レターフォームを少し詰めるというようなことは現在では簡単に出来るようになったが、当時の手作業ではかなり大変なことだったのである。
 こうしてテスト文字盤を作成し、ハース社の活字見本帳と同じ体裁で印字してみる。その上で、さらに修整を施す。最終的にはハース社に確認しOKが出るまで、修整をくりかえすのである。OKが出て、やっと完成となった。同様の方法により、我々のチームは、ヘルベチカのファミリー17書体を制作したのである。
posted by 今田欣一 at 12:51| 1章:「ボカッシイ」の時代(1977–1983) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする