2013年04月09日

[吉備の国から] 第2回 「武元登々庵『行庵詩草』研究と評釈」より

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●「武元登々庵『行庵詩草』研究と評釈」(竹谷長二郎、笠間書院、1995年)

 特別史跡閑谷学校を訪れると、まず目に入ってくるのが閑谷学校の正門「鶴鳴門」です。1701年(元禄14年)の造営で、両袖に附属室がある中国の形式を模しているのが特徴です。聖廟(孔子廟)の正門として建てられたもので、重要文化財となっています。扉をひらくときの音が鶴の鳴き声に似ているということで、この名前があります。
 藩主の通るのが御成門(公門)で、生徒や聴講者は飲室門(通用門)から出入りしていました。武元登々庵も、飲室門(通用門)から出入りしていたと思いますが、鶴鳴門は内から外から見ていたことでしょう。

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●特別史跡閑谷学校

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●閑谷学校資料館

 武元登々庵という名前を知ったのは、私の母校である『和気閑谷高校創立325年誌』で紹介されていたからです。遠い先輩にあたり、書家で詩人というところに興味を持ちました。登々庵とは、拓本をとるときの「トントン」という音にちなんでいるそうです。
 武元登々庵の作品を主として所蔵する全国でも珍しい書道中心の美術館が、備前市吉永美術館です。現在は企画展を開催する時だけ開館しているようで、まだ行ったことはありませんが、『武元登々庵の生涯と詩書』(米村昭二、吉永町美術館、2002年)という本が発行されていました。武元登々庵とはどういう人物かを少しでも知りたくて、さっそく購入してみました。
 この書物は、武元登々庵の幼少時代からの足跡をたどりながら、彼の代表作『古詩韻範』『行庵詩草』を中心に、その内容や書かれた背景、交友関係などを詳しく紹介しています。

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●漢詩論『古詩韻範』

 私の母校のルーツとされる閑谷学校は、備前藩主・池田光政が地方の指導者育成を目的として、1670年(寛文10年)に設立した藩営の学校です。武士のみならず庶民の子弟も教育したことから、世界最古の庶民学校といわれています。
 武元登々庵については、デジタル版『日本人名大辞典』(講談社)に、つぎのように記されています。

武元登々庵 たけもと・とうとうあん
1767-1818 江戸時代中期-後期の漢詩人、書家。
明和4年2月15日生まれ。備前岡山藩閑谷〔しずたに〕学校にまなび、諸国を遊歴、長崎で蘭学をおさめる。のち京坂地方で頼山陽、菅茶山〔かん・ちゃざん〕、田能村竹田〔たのむら・ちくでん〕、浦上春琴〔しゅんきん〕らとまじわった。文化15年2月23日死去。52歳。備前出身。名は正質。字〔あざな〕は景文。通称は周平。別号に行庵。著作に「古詩韻範」「行庵詩草」など。


 さらに『行庵詩草』の漢詩を読みたくて「武元登々庵『行庵詩草』研究と評釈」(竹谷長二郎、笠間書院、1995年)を買いました。少し高価でしたので、ためらったあげく決心しました。
『行庵詩草』は遍歴の土地ごとの詩草を集めたもので、「生涯一片青山」から一字ずつを取って、巻一は生集「薇山吟月」、巻二は涯集「嚴島眠雲」、巻三は一集「赤馬觀濤」、巻四は片集「紫溟弔古」、巻五は青集「瓊浦探奇」、そして巻六は山集「泛庵餘興」という構成です。
「薇山吟月」は、岡山から尾道に至るまでの作品58首をおさめています。薇山とは西備の山々のことです。「嚴島眠雲」は、広島と宮島に遊んだ時の作です。「赤馬觀濤」で宮島から九州をめざし、「紫溟弔古」で小倉、太宰府、唐津、「瓊浦探奇」で長崎を旅したあと、帰途についています。「泛庵餘興」は、郷里に戻ってからの作品のようです。

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● 漢詩集『行庵詩草』

『行庵詩草』のなかから、漢字書体「龍爪」で組んでみました。
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追記:
京都・長楽寺にある武元登登庵の書。

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案内板によれば、浦上春琴による米芾の書法上の秘訣を武元登登庵が揮毫したものだそうだ。
posted by 今田欣一 at 20:28| 吉備の国から | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする