2013年04月05日

[航海誌] 第3回 石井細明朝体(漢字)

 私が株式会社写研に入社したのは1977年4月1日のことだった。
 一週間の新入社員教育期間を終えて、この日から職場に配属された。同じ職場には、私を含めて3人が配属になった。ここでもすぐに仕事につくのではなかった。約2ヶ月間にわたる研修が待っていたのだ。
 その研修で、最初に実習したのは石井細明朝体である。石井細明朝体の書体見本が配られた。この書体見本は仮想ボディ48mmサイズで、基準となる12文字が並べられている。部首、画数などの参考となる代表的な字種である。これを観察して、課題の字種を描いていくのである。この48mmサイズというのは、手動写植機が16Q基準であったために、その倍数で2インチに近いものとして決められたようである。

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●新人研修で練習した石井細明朝体

 石井細明朝体は、写真植字機研究所社長の石井茂吉氏が、3年以上の歳月を要して昭和26年に完成させた書体である。この書体の制作意図については、『文字に生きる<写研五〇年の歩み>』(文字に生きる編纂委員会、株式会社写研、1975年)に次のように書かれている。

石井が作ろうとした新しい明朝体は戦後生まれ変わった日本にふさわしい、清新で、民主主義、自由主義の息吹きにマッチする明るい書体でなければならなかった。戦前に制作された石井中明朝体では、格調の高さが重んじられたのに対して、新しい書体では、戦後の明るい世相を反映する優雅な繊細さが重んじられた。と同時に、戦後、急速に、特に端物印刷にオフセット印刷が導入されてきたので、当然オフセット印刷に向いた書体でなければならなかった。


 私にとってのはじめての実作業というのは、大修館書店から発行される『広漢和辞典』のための石井細明朝体であった。これは『大漢和辞典』用石井細明朝体を改刻するという仕事であった。
 『大漢和辞典』用石井細明朝体は、大修館書店からの依頼によるもので、約5万字を制作している。昭和27年に制作を開始し、昭和35年に完成した。この『大漢和辞典』用の原字制作の労苦などが認められ、石井茂吉氏は昭和35年に「菊池寛賞」を受賞している。
 諸橋轍次著『大漢和辞典』は全13巻の大作であった。この汎用版として『広漢和辞典』が企画されたのだと思う。『広漢和辞典』でも全4巻である。大漢和辞典用の文字盤をそのまま使うのではなく、あらたに制作をし直すことになったようだ。
 おそらく大漢和辞典用の文字盤から拡大したのだろう、48mmサイズになったフィルム原字が渡された。書体制作はフィルム上で行われていた。画質はかなりボロボロで、なるほど改刻が必要だというのも当然だなと納得したものである。その作業は、私を含め入社3年未満の若者数名に託された。

 横線は48mmサイズ原字上で1mmに設定されていた。烏口を使って一発で引いていく。1.05mmでも0.95mmになってもいけない。スケール・ルーペで計測しながら、慎重に太さを合わせた。そして三角定規をあてて水平に引く。今のデジタル環境ではたやすいことが、当時はことのほか難しいことだった。
 石井細明朝体の筆法は、ひとつひとつに毛筆の運筆が考慮に入れられている。側法(点)ひとつとってみても、収筆のときに筆を引いているので、丸ではなく三角おむすびのようになる。このカタチにするのがなかなかできなくて苦労したものだ。
 おもな修整作業は画質をきれいにすることであったから、結法(フォルム)は大漢和辞典用の原字のままというのが基本だった。ただ見たことのない字種ばかりだったことに、戸惑いながら作業をしていたように記憶している。最後に章法、すなわち文字のセンターを決める作業をして完成となる。

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●『広漢和辞典』

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●『広漢和辞典』索引より

 写研に入社したからといって、新人研修以外で石井細明朝体を集中的に制作できることは少ない。そのうえ『広漢和辞典』というかたちで残されていることはラッキーだったと思っている。数多くある本文用明朝体の中で、いまでも石井細明朝体がいちばん好きな書体なのである。
posted by 今田欣一 at 17:17| 航海誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする